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2007年5月16日 (水)

風船

 落し物は交番に届けなければならない。幼少の頃から、家庭でも学校でも社会でもそう教えられてきた。教えられてきたことが何から何まで真実であるとは限らないし、盲目に信じてはならないと思うけれど、いずれにせよ現代の世界のシステムの中では、多くの場合において正しいとは思う。不思議なのは、僕の落し物が帰ってきた経験は、全くないという点だけだ。

 拾った。丁度手の上に収まるサイズに膨らんだ、風船。材質はどう見ても紙ではないが、いかんせんゴムだとも断定しづらい。表面の弾力の質感が、妙にざらつきつつしっとりしているからだ。どことなく、砂にまみれた軟球のテニスボールを喚起させるけれど、実際のところはそれとも微妙に異なる。ひんやりとした感触が、心地良くも気味が悪い。それにしても、僕はこれを風船と呼んだけれど果たして本当に風船なのかは分からない。なにせ、空気を送り込む送風口がない。しかし、今まで得てきた知識と経験をかき集め、それぞれと照らし合わせてみると風船と言わざるをえない。だからとにかく、僕は風船を拾った。便宜的に。

 交番には届けなかった。なぜなら、落し物ではなかったからだ。けれど僕は確かに拾ったのだ。風船は、今時はもう珍しい、歩道橋の下に捨てられているゴミの中にあった。自転車に乗って食材の買出しに行く道すがら、横目で歩道橋を見ると、風船があった。我ながら、よく気がついたと思う。あるいは、我ながら、なぜこんなものに気がついたのだろうとも思う。

 薄いカーキグレー。そこそこの明度を保った色味をしている。透過性はない。弾力の性質からいくと、やはりたぶん中には空気が詰まっているように思うけれど、それさえも定かではない。非常に軽い。風船だと意識してみたとしても、軽い。楽に持って帰ることが出来た。買い物を途中で引き返してしまったのは痛いけれど、明日に回せばいい。

 それほどまでに風船を大切に思った理由は分からない。ゴミとして捨てられていたのに、だ。難しいことをとやかく考える前に、僕は既に拾ってしまっていた。そして今、目の前に風船は転がっている。

 買い物を切り上げてしまったから、夕飯は質素に済ませるしかない。とりあえず、中華風の冷奴、レタスと新タマネギをポン酢ベースに梅肉としらすを加えたサラダ。薄切りの豚肉を簡易的にしょうが焼きにする。味噌汁はインスタントで済ませる。本意ではないが、仕方がない。それだけを用意し、氷水を持って食卓へ向かう。

 ……ズザッ…………ズズッ……。音がする。僕は振り向く。何かがおかしい。さっきまでの光景と、何処かが異なっている。目を凝らしてみる。そうだ、風船だ。ほんのわずかではあるが、風船が、膨らんでいる。どういうことだろう。空気を送ってなどいないし、まして、そもそもこの風船には送風口なんて見当たらないのだ。気のせいなのだろうか。

 夕飯を済ませる。心持ちがおかしいからか、味があんまり感じられなかった。さっさと後片付けを終える。テレビのスイッチを入れる。あまり面白いプログラムがない。諦めてテレビを消す。よく考えてみれば、そんなことをしているよりも、風船だ。

 先ほどから特に変化はないようだ。今のうちに、直径を計ってみる。15センチメートルジャスト。目の前に転がっている姿を見ると、少々不気味に思えてきたが、それでも捨ててしまおうという気持ちにならない。僕はこの風船に何を求め、何を認めているのだろう。

 そういえば、丸いものを好む傾向にあるかもしれない。ドット柄も好きだし、水玉模様も好きだ。とんがったオブジェをおくよりも、丸みを帯びたオブジェを置きたい。丸の魅力を考察する。滑らかさや柔らかさを持ち、それが母体を彷彿とさせるのかもしれない。不安定に見えて頑なな安定さを保つ、それが羨ましいのかもしれない。もしかしたら、丸に魅力があるのではなく、他の形態に魅力が足りていないのかもしれない。

 終わりのない考察をしていると、再び音がした。……ズズッ…………ズズズッ……。見た。今度こそ、明らかに膨らんでいる。僕は今、その瞬間を目にした。やはりほんのわずかではあるけれど、確かに風船は膨らんだ。試しにサイズを測る。17センチメートル。間違いない。

 そんな日々が続いた。一ヶ月は過ぎただろうか。その間、気がつけば風船は膨らみ、徐々に形が変化してきた。初めは完全に丸型だったわけだけれど、今は幾分細長い。こうして見ている今も、少しだけれど膨らんでいる。ペースは上がっている。完全な丸型ではないくなっても、僕は手放さなかった。この風船の成れの果てを、見てみたくなったからだ。

 やはり形の変化を遂げる日々が続いた。拾った日から半年ほど経過した。風船は、ついに僕の身長と同じくらいの大きさになった。そして形も複雑化している。サボテンのような、トーテムポールのような。弾力の性質も変化してきたように思う。少しばかり、硬くなってきた。表面に関してはともかく、内部の感触が妙に硬い。まるで、何か中に芯を入れたような硬さ。

 風船は存在感を示している。気配、とでも言おうか。一人暮らしの生活には感じられない空気。ペットを飼うと、こういう気分になるのだろうか。僕の横にあるペットと捉えるべきものは、いささか大きすぎるけれど。特に良い気分ではない。でも悪い気分でもない。

 そうしてまた、しばらく時が過ぎた。拾って、一年は経つそんなある日の夜だった。

 風船はガタガタと動き始めた。これまでにない激しい動きだ。まるで木のように成長していた風船が、もの凄いスピードで変化している。グニャグニャ、ではない。バキバキ、という音をたてて。これまで安定していたカーキグレーの色も、急速に変化が始まった。赤、青、緑、オレンジ、ピンク、茶、黒、白…………ある地点で色の変化は止まる。黄みがかったベージュ、どこか慣れ親しんだような色味。その間も、バキバキと不穏な音をたてて形は定まらない。

 僕はどうすることも出来なかった。ただただ、風船を前にして立ち尽くしていた。人間、あまりにも捉えようのない事実が起こると、まじまじと観察し、身動きを忘れるものなのだろうか。僕はとにかく、風船を見つめていた。次第に、風船の形が定まっていく。

 気付いていた。音がパキパキと小さなものになり、形の変化が終盤に近づく頃には、風船が形作っているのが何なのか、僕は気付いていた。ヒトだ。頭があり、腕があり、胴体があり、足があり……目、耳、口、性器、爪、髪……ヒトを形作っている。

 鏡。僕は鏡を見るのがあまり好きではない。別に自分の顔を見ていたって面白くもなんともないし、スタイルだってガッカリするだけだ。だから、家には鏡がほとんどない。洗面所を除いて。全身鏡など、もってのほかだ。あれはデパートメントストアで見ればいい。

 立ち尽くす僕の目の前に、僕が立っていた。クローン。風船は、完全にヒトであり、僕になっていた。肌の色―道理で慣れ親しんだ色味に見えたはずだ―、ホクロの位置、皺の深さ、毛穴の大きさ……こと総てが合致していた。なるほど、僕は頷く。

 「どうも」

 彼―便宜的に彼と呼ぶほかはないだろう―は声を発した。聴きなれた音質。

 「どうも」

 僕は答える。どことなく体の中心あたりが、ムズムズする。胸の底から、息が締め出される感覚もする。内臓が収縮していくイメージが沸きあがる。全身の力が抜ける。決して苦しくはない。むしろ、どことなく落ち着いた安らぎすら覚える。徐々に意識がぼんやりとしてくる。はっきりしているけれど、ぼんやりと。カメラのピントが合わないみたいに。

 「じゃあ」

 彼が話しかけている。返事をしなければ、と思う。しかし、口が思うように開かない。皮膚の神経が巧く働かない。いつの間にか、僕は彼を見上げている。

 「うん」

 締め出すように、それだけを呟く。視界も狭まってきた。身動きも取れない。

 微かに彼の眼の中に映る、モノを見つける。あぁ、風船だ。あの風船だ。軟球のテニスボール、カーキグレー。

 否、彼は彼ではない、僕だ。新しい僕は、風船を持ち上げる。体が随分と軽くなった。身を任せる。

 僕は風船を片手に自転車に乗る。歩道橋の下へたどり着く。積み重なるゴミの上へ、そっと置く。

 僕は遠ざかる。

 僕は、新たな僕を待ち続ける。

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 すごく時間がかかった。最後のあたりは、特に。自分でも段々、どういう文章を書いているのか分からなくなったほどだ。でも、きちんと仕上がったと思う。

 この文章も、もっと根を詰めて書くと、随分と長いものになると思う。こんなに短くまとめてしまったのは、もしかしたら不適格かもしれない。

 この文章に、教訓などない。というより、僕の書く文章に教訓などない。けれど、そこから何かを感じてもらえることがあればいいと思い、書く。     circus

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コメント

こういう感じのストーリー、ぼくの好みです。。。

村上春樹の短編集に似たような世界観を感じて読み入ってしまいました。彼の作品はなぜだかハマってしまいます。

「風船」良かったです☆

>tantanさん
ありがとうございます。読んでもらえる上に、そっと好感を抱いていただけるのは何より。

はい、影響はかなり大きいので、自然とそうなってしまうのかもしれません。
3500文字程度の短い文章ですが、これくらいが僕はホントに好きなんです。
サッと読んで、後はそれぞれの考えるスペースがあるというか。
長編でそれを出来る人が、羨ましいわけですけれど。

風船、ストレートすぎるタイトルかとも思いましたが、本文との空気が合ったので、そのまま書きました。

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