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2007年3月28日 (水)

僕は今日もページをめくる。

 数日前、会話の中でこんな言葉が出てきた。

 「同じ本を何度も読み返す。でも、読むたびに新しさがあって、考えることがある。もちろん、新しい本だって読むけれど。」

 趣旨を要約すると、そういうことを。この言葉を聞いて、僕は僕の場合を考えた。僕はどうだろう。

 考えるまでもなく、僕も同じ本を何度も読み返す。安部公房の『壁』はたぶん20回以上は読んでいるし、『第四間氷期』も同様だ。ほか短編も長編も安部公房はかなり読み返す。そして村上春樹、あの呆れるほどに長い『ねじまき鳥クロニクル』を何度読んだだろう、『ダンス・ダンス・ダンス』もそうだ。無論、他の短編も長編も。他の本においても、読み返す機会は多い。……とりわけフランツ・カフカ。

 大学一年生くらいのころだろうか、フランツ・カフカについて少し考えていたことがあった。もちろん僕はそういう研究家ではないし、あくまで興味の範囲内での話だ。その中で、カフカの翻訳をしている方のこのサイトにおいて、カフカの言葉が載っていた。

 ぼくは、自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。もし、ぼくらの読む本が、頭をガツンと一撃してぼくらを目覚めさせてくれないなら、いったい何のためにぼくらは本を読むのか? きみが言うように、ぼくらを幸福にするためか? やれやれ、本なんかなくたってぼくらは同じように幸福でいられるだろうし、ぼくらを幸福にするような本なら、必要とあれば自分で書けるだろう。いいかい、必要な本とは、ぼくらをこのうえなく苦しめ痛めつける不幸のように、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。

 なるほど、と思った。これは限りなく、僕がこれまで思っていたことに合致する考え方だ、と。きっとだからこそ、僕は何のきっかけからかカフカの本を手に取り、あの段落も落ち着かない文章を読み進め、さらにはもう少しカフカに触れようとしたのだろうと思う。……それはともかくとして、この言葉だ。

 表現はどうあれ、つまるとこは「本とは、その読み手に対して、あらがいようのない強い衝撃を与えるべきなのだ」ということだ。なんて誠実な考え方だろう。本を大切にしているのだろう。

 僕のこれまでの経験上、本を読んだ際に「あー、まぁアレかなぁ。面白いっちゃ面白かったのかなぁ、なんとなく。」みたいな釈然としない心を抱き、自分の中になんのとっかかりもなく流れていった本は、後に読み返すことはない。逆に言えば、たとえどれだけある種の退屈さや苦痛を伴い、そこに笑顔が溢れていなくとも、自分の中に引っかかる本は、その時に読み返したいと感じなくとも、結局は後に読み返すことになる。

 それは僕が思うに、「自分の中に残る引っかかり」というのは、「これまでの自分になかった価値観や考え方」であったり、「理解が出来ないような理屈や経験則」であったりするのかもしれない。一度それを読んだだけでは、吸収も消化も、ともすれば飲み込むことすら出来ていないこと、ではないか。カフカのいう作用とは、それらの総合した形なのではないだろうか。

 僕らは自分の範囲外の出来事に遭遇すると、衝撃をうける。それを感動と呼ぶこともあるだろう。僕らは様々な成長と変化を遂げる。時には留まることもある、ただし留まることを通じて、心と意志をより強くしている。

 そして僕らは、一つの本を何度も読み返す。何度読んでも受けるだけの衝撃が、その本には詰まっているということだ。衝撃を与える役割として、僕らの前に意味を持ち存在しうる。そういう本に出会えるのは、どれだけ素晴らしいことか。

 たぶん、このカフカや僕の感じていることは、多くの人にとっても間違いではないだろうし、いくらかの人にとっては理解もしてもらえるだろうし、また僅かな人にとっては同じ感覚を抱いているのだろう。今回、僕の周りに少なくともそう感じる者がいたように。

 ところで僕は、その先を考えた。読み返す、読み返す、読み返す。その先で、「これまで擦り切れるほどに読み返したけれど、もう今は読み返すことが無い」という本は、その人にとってそういう意味を持ち、どういう位置にいるのだろうか、と。少なからず、あるのだ。読み返しを重ねたことによって、今はもう読み返すことはなくなる、ということが。僕の場合、まだ生きている年数が少ないから、安部公房や村上春樹やカフカにそう感じることはない。ただ、「すごく好きだし、何度も読み返したけれど、もう読み返さないかもしれない」という本は、あるのだ。指折り数えるほどの回数では、除くべきかもしれないけれど。

 前に述べたカフカや僕の捉え方から言えば、きっとその本は既に僕に対して、衝撃を与える要素を含まない本になったのだ、と言える。あるいは、「僕はその本から、僕に与えられるべき衝撃を総て受け取った」とも言える。どちらにせよ、その本はこれまでののように、僕には作用しなくなっているということなのだろう。

 ならば、その本は、僕にとって何たるものなのか。

 僕が思ったのは、「ようやく、それは僕にとっての<本>になるのではないか」ということだ。それも、すごく個人的な<本>に。ようやく、と書いたが「それだけの意味はある過程を経て」という意味だ。

 言い方は悪いけれど、自分自身になんの衝撃も与えず、作用する役割を持たない本は、本ではないように思う。それは結局、その人にとって「紙とインクの塊である本」に過ぎないのかもしれない、と。これは本を創る側の人間をすごく踏みにじってしまう考えだと自分でも感じているけれど、本に対する考えを突き詰めれば突き詰めるほど、到達してしまうのだ。僕だって創る側の人間なのだから、自分でこんな考えを述べて、心苦しい部分もある。

 でも、現実にそうなのだ。僕の本棚の中には、悲しくも「ただの紙とインクの塊」になってしまった本が幾つもある。そして同じ空間に、個人的な<本>になったものもある。そして個人的な<本>になるべき本がたくさんある。誰しも、同じことだ。

 個人的な<本>になった時、それはその本が僕らに対するスタンスが安定し確立した状態になると同時に、僕らから見てもその本に対するスタンスが確立した状態になる。つまりは、その本に対する評価や分析、切実な想いが、揺るがないものになるということだ。

 他人から「この本はどう感じるか」と聞かれたり、あるいは人に「この本をすすめよう」と想う際に、明確に自分なりの形として揺るがない想いを、確実に表現できるということだ。

 モチロン、人にすすめたりするのに、必ずそういう状態である必要は全く無い。むしろ、そういう状態で無いほうが、すすめる意味はあるのかもしれない。その辺は、まだよく分からない。すすめた本による、人の変化を僕はまだ実感したことがないからだと思う。

 ただ、個人的な<本>になりえた本は、僕の中に強く存在する。一体化するといっても良い。他人から見て、何かそのような節があるかどうかは、問題ではなく。なんだろう、立花隆に言わせれば「僕の血となり、骨となり、肉となった本」ということになるのだろうか。

 個人的な<本>になりうるまで、読み返している最中の本が血や肉にならないわけではない。それは初めに言っていたとおりだ。むしろその過程こそが重要で意味のあることなわけであり、あくまで結果として個人的な<本>という捉え方が生まれているに過ぎない。だから、僕らは何度も本を読み返す。そしてその度に個人的な<本>に近づかせていく。

 僕はこれから先、どれだけの本を個人的な<本>にしていけるだろう。もしくは近づかせていけるだろう。分からない。キリがないのだ、とも思う。でも、本というものはそうあるべきなのだとも思う。

 そんないろんなことを思いながら、僕は今日もページをめくる。

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 この文章を書いた後に、また考えてみると、カフカの言葉と僕の言葉は、どうやら視点が逆に置かれているらしいということに気付く。それはたぶん、カフカが作家であり、僕は読み手であるからだろう。

 カフカは読むという言葉を使っているものの、全体のニュアンスを見ると「本はこうあるべきだ」というのを「こう書き、書かれるものだ」という方面を中心としてえぐっている。僕は「本はこうあるべきだ」というのを「こう読み、読まれるものだ」という方面を中心としてえぐる。でも結局は、「本はこうあるべきだ」というのを語っているわけだけれど。

 この文章において考えている事柄の中に、実のところまた別に掘り下げて考えるべき事柄がある。それは選択ということだ。僕らは「自分から本を選び出会っていくのか」それとも「本とは自然と必然的に選び出会って繋がるのか」ということだ。ただしそれは、本との関わり合いのみならず、世の中の多くの関わり合いにおける出会いに関する事柄でもあり、また長くなるであろうから別の機会に書くことにする。

 それにしても読みづらい文章だ。書いた本人が読みづらいのだから、周りはなお更だろうか。

 その上、その先を考えるといった部分の個人的な<本>の部分は、考察が足りない。結局、その個人的な<本>とはどういう存在で、いかなるものか、ということを言及していない。このテーマもやはり、いずれ別に書かなければならない。

 今回書いた文章は、多くの考えることを含む単なるアウトラインであり、序章でもあり、最も的確に言えるなら習作である気がしてくる。

 僕以外の人間には、一体、どう捉えられるのだろう。     circus

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