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2007年3月23日 (金)

人並み

 時折、声を聞く。「普通ってなんだよ」と言う声。現代において、こと何かを批判的に捉えたり、あるいは自分自身を少し変わった人間だと認識している人ほど、このセリフをよく使う気がする。かく言う僕自身も、確か高校一年生くらいの頃は、同じような類の言葉を振りかざして、周囲よりも現実をよく理解していると勘違いし、自分がある意味において誠実な人間なのだ、と思い込んでいたこともあった。懐かしいものだ。

 けれど、今となっては、正確に言えば高校二年生あたりの頃から、全くもってその考えは下らない考えで、なんと意味のない虚構だったのだろうと思う。そして、現在でもそう思う。「普通」を否定することを、僕は間違っているとは言わない。明らかに「普通」という言葉を盾に、様々な可能性や受け入れなければならない状況、もしくは自分自身の甘さを、正当化しようと試み、かつ周囲を蔑む人間が世の中には溢れるほどにいるからだ。そういう人間が「普通」を必要以上に掲げることは、僕も気持ちよい感じはしないし、「普通ってなんだよ」と言いたくもなる。

 僕が言いたいのは、そういう「普通」ではない。もっと日常的に、人間的に、あるいは感情的な意味合いにおいて「普通」というものは大切なのではないか、ということだ。ただ僕は、「普通」という言葉ではなく「人並み」という言葉を主張したい。

 「普通」:特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それが当たり前であること。一般に。たいてい。通常。

 「人並み」:世間一般の人と同じ程度であること。世間並み。

 辞書における意味を見てみると、その言葉の持ちうる意味の範囲に多少の差はあれど、つまるところでは「だいたい人と同じようなこと」というニュアンスで括られる。そして現実の世の中の会話においては、はっきり言ってほぼ同じ用途で使われている。もちろん、言語を職種としている者やある程度自らがこの類のことについて考えたことがある者は、厳密にいくと違いがあることに気がつくであろうが、おそらくそれこそ一般的に言えば、この二つの言葉は置き換えてもなんの支障もない。

 僕はそれでも、「人並み」という言葉の大切さを思う。もちろん、それは「普通」という考え方にも大きく影響あするものだし、僕が主張すべき中心は、いずれにせよ同じところにあると言ってもいい。本題に移ろう。

 現代において、人々の意識は「人並み」を忘れすぎている。否、「人並み」というものを軽視し、まるで愚かなことであるかのように信じ込み、教え込みすぎている。「個性」という言葉に意識を囚われすぎ、あたかも「個性」を重視することは「人並み」とは逆のベクトルであると感じすぎてしまっている。それは大きな間違いであると、僕は思う。

 決して「個性」と「人並み」は相反する、反比例のようなモノではない。相関関係があるかどうかは、統計的な関数を取ることが出来ないものだからわからないけれど、少なくともどちらかを取るとどちらかを犠牲にしてしまうものでは、ない。むしろどちらかと言うならば、僕は比例関係にあるのではないか、とすら思う。

 「個性」を神格化するようになったのは、やはり欧米化が進んできたといわれる現代になってからなのだろうか。確かに、それまでの日本人の姿勢に比べれば、その答えはやはりイエスなのだろうと思う。教育においても、「個性」を引き出すことが重要であると、しつこく言われている。なるほど「個性」は必要かもしれない、けれど、「人並み」を知らぬ見せかけだけの「個性」に一体、何の意味があるというのだろう。

 「個性」を何よりも先に重く見ることは、良くも悪くも多くのプレッシャーを与えている。昔から殺人や自殺や不思議な事件は多いし、特別現代になって増えたとは僕は思っていないのだけれど―ただただ、情報技術の進歩による、情報共有の量に昔と今では差があるだけだ―、事件の質として、現代の事件にはいささか疑問を感じることがある。

 それは事件を起こす側も含め、全体の意識の問題だ。どうもこのところの事件は「食うに困って」とか「復讐で」とかではなく、個人的な行き過ぎた感情によるものが多いと感じる。その要因の一つに、「個性」を埋め込まれ「人並み」を忘れすぎていることがあると、僕は思っている。

 「人並み」に何かを思ったり、考えたり、行動することは非常に紳士的だし、とてつもなくフェアだ。たとえば、人を殺そうと思うときに、その殺す側の人間が果たして「人並み」に「殺される側の苦しみや、残される者の苦しみ」を理解できているなら、殺すことなど出来ない。自殺しようとするものが果たして「人並み」に「生きることの気楽さを持ち、何かに対する反骨精神を持つ」ようなら、自殺など愚かなことだと気付く。そして同じように、「人並み」に多くのことを考えてみれば、世の中はもう少し平和に回る。

 要するにアレだ。僕は小さい頃によく言われたものだが、「人の痛みを知らなければならない」ということでもある。加えて言えば、「常識を知らなければならない」ということでもある。常識なんて概念は、国柄によっても当然違いは生まれてくるわけではあるけれど、少なくとも人間的常識のことを僕は思う。その常識という考え方もつまりは、「人並み」ということだ。

 ある程度、「これはやっちゃいけないんだ」とか「これくらいでいいのかもしれない」とか感じることは、絶対に必要なことだ。それは逃げではない。秩序を保つための、手段だ。

 考えてもみれば、世の中に存在する人間、みんながみんな「オレは人と違うんだぜ」なんて言い出したら、どれだけ統率のない秩序のない世の中になるだろう。人が一人一人違うことは今更取り上げるまでもない真実ではあるけれど、それをあたかも特殊事項であるかのように、そしてその思想に囚われて人を想えなくなるのは、どうにも本末転倒な気がしてならない。「個性」なんて特殊なもんじゃない。

 結局は、「人並み」による社会の秩序を僕は語りたいのかもしれない。盲目的に「個性」だけを引っ張りあげるのは何か不自然な気がする、ということだ。「個性」なんてものは「人並み」を知った上でその人なりに勝手に出てくるものだ。多くの出会いや別れ、喜びや悲しみ、文化や世俗にもまれることによって、経験することによって。

 言っておきたいのは僕は「人並み」は大切だと感じているけれど、それは現在のごく一部で主張される「平等」とは全く違う。僕は世の中に「平等」なんてないと思っている。人間、生まれた瞬間から、生まれる前から「平等」なんてことはないのだから。運動会でみんな手を繋がせてゴールさせるような、桃太朗の劇で桃太朗が何人もいるような、そんな反吐が出る下らない平等主義なんて、必要だとは思わない。それは「人並み」じゃあない、それこそ「人並み」という意識を忘れた人間の主張することだ。「人並み」の意識を持っているものに、いまさら平等なんて主張する意味はないのだから。そこは強調しておきたい。

 僕は人から「普通じゃない」なんて言われることもあるけれど、僕はそれをあまり好まない。人によってはそれを、「個性」と考えよしとする人もいるのだろうけれど、僕は何がおかしいのだろうと感じてしまう。なぜなら、僕はかなりの場合、「人並み」だからだ。こんなことを語るくらいなのだから、当然意識もしている。だから僕は、もう面倒だから初めに付け加えることもある。「普通の人は違うらしいんだけれど……」などと。でも僕に言わせれば、そんな文句を付けなければならない時こそ、「人並み」のことを考え、世の中は「人並み」という考えが脆弱なのだな、と感じる。

 「人並み」なことは何も、悪いことじゃない。「人並み」でないことが、特別良いわけでもない。「個性」が神で「人並み」が平凡なわけじゃない。「人並み」がつまらなくて「個性」が優れているわけでもない。そういうことだ。日本の教育について、メディアではとても騒がれているけれど、僕は今一度「人並み」という意識を、まずは大人の側が持ち直すことが何より必要なことなのではないか、そんなことまで思う。

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 支離滅裂すぎて、ヒドイ文章。でもそれくらい「人並み」の必要性は感じるということだ。今回の文章は、構成を考えることも一切なく、本当に主張したいことは何なのか分析することもなく、流れに身を委ねて文章を上げてみた。

 たまにはそれも、良いと思う。たまにはそれも、楽しいと思う。     circus

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