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2007年3月24日 (土)

動く空を見上げる。

 「何をしているの?」

 君は僕に語りかける。僕は君の声を受け入れる。周りには多くのざわめきが存在し、間違っても静寂に包まれているわけではない。でも僕らは、確かに互いの世界の中に身を置き、そこはどんな静寂よりも静寂であり、またある意味ではどんなざわめきよりもざわめいている。そして何処のどんな音より、誰のどんな声よりも、僕は君の声を明確に取り入れ、君は僕の声に耳を傾けている。桜の揺らめく音と、子どもの嬉々とした歓びだけは微かに僕らの世界にシャボン玉のように浮いているけれど、それはただ単に美しく、僕らの周りに漂っている。

 「空を、見ているんだ」

 空気の流れをなるべく淀ませることなく、けれどそれが言葉として迷うことなく機能するように、僕は呟く。最低限に削り切った、最大限の事実を。もちろん、いつだってそんな風に総てを集約して呟くわけじゃあ、ない。空を見ているときだけだ。空を見ているときは、それでいい。君だってそれをきっと理解しているし、だからこそ君も同様に語りかける。

 空は青く澄み切っている部分もあれば、これでもかというほどに見事な白い雲を身につけている部分もあり、ともすれば今にも冷たい水を僕らに降り掛けそうな灰色の部分もある。僕が今見上げている空は、そういう空だ。その全体を見渡す位置に視線を固定し、出来うる限りのまばたきを省略する。目は多少なり乾くけれど、自然は僕を壊したりはしない。僕が自然をあざ笑ったりしないように。

 「そうすることで、あなたは何かを得るのね?」

 君は囁く。

 「あるいは」

 僕は答える。

 大きくも小さくもない鳥が、優雅に舞っている。でも羽ばたく音はない。僕らの世界には、その羽ばたきの影だけが溢れている。決して、空を妨げることはない。いわばその影は、上等なフランスパンにおける塩のごとく、堅実なワインに含まれる輝きのごとく、律儀なチーズに開いている穴のごとく、それは空の要素であると同時に、それは空の成分であり、時に見え隠れするものだ。僕は影がいようと、視線を動かすことはしない。

 雲は瞬間ごとに姿を変える。理論的に全く同じ雲が出来るはずがないように、現実的にも全く同じ雲が見えることはない。雲の欠片は瞬く間に分散あるいは集結し、雲の塊は勝るとも劣らぬ速さで自らの位置を変える。僕らの持つ眼はそれほど優秀なものではないのかもしれないけれど、それくらいは分かる。感覚的にも、感情的にも。

 空を見ることに必要なものは、いくつかある。それなりに現状を維持できている身体と、相応に付き添う精神、寝転がるための場所、そして世界を創る意志。それさえあれば、僕らは空を見る事が出来る。難しいことは何もない。ただその場に寝転がって、精神の多くを空に向け、それ以上に身体を空に向ければ良い。

 けれど、それで十分かと問われれば、僕はそうは思わない。空を見る前には十分な栄養補給が必要だ。新鮮な野菜を中心とした誠実に作られたサンドウィッチや、罪深いほどに甘みと酸味を保持したフルーツ、正しい乾燥と焙煎を通過し誠意を込めて淹れられたブラックコーヒーや、呆れるほどに香りとキレを高めたアールグレイ。また、空を見る場所は整っているほうが当然、良い。無邪気に暖かな陽射しが少し、無頓着にそよぐ風が少し、無期限に柔らかな土が少し、そして無意識に心地良い芝生が少し。

 精神と意志に関しては、確固たる自己の存在を信じていれば良いと思うけれど、自己の存在を信じてくれる愛する者がいると、さらに素晴らしい。その際にはもちろん、自分のその愛する者の自己の存在も信じていなければならない。

 「君も、見てみればいい」

 ふと、僕の声は虚しく響き渡る。呟きは相変わらず最低限で最大限であるには違いなくとも、僕の声は宙を彷徨う。いつしか、世界から君は抜け出している気配がする、もしくは世界に君の気配がしない。途轍もない寂しさを感じる。僕はその波のように迫りくる寂しさに、あらがうことは出来ない。今すぐ、空を見ることをやめ、君を探しに僕も世界を抜けださなければならない。しかしそれは、正しい思考なのだろうか。

 「落ち着くんだ」

 胸、頭、全身に言い聞かせる。きっと僕は何かを忘れている。それも大事な何かを。焦りに身を任せて、世界を抜け出すことは賢い選択ではない。そうだ。まだ、君が世界から抜け出したと決まったわけではないのだ。僕の声は宙を彷徨っているけれど、それが総てを物語るわけではないのだ。たぶん、おそらく。

 僕は変わらず空を見る。空も変わらず動いている。僕は思う。君が世界にいなくとも、空は変わらず動くのだろう。そして、僕はそれを見ることが出来るのだろう。今こうして、見上げているように。でも、僕は決して満たされることがない。

 空を見ることに何かがあるのだ、と僕は思っていた。それで何かが得られるのだと感じていた。でもそれは。

 「大きな勘違いだ」

 涙が滲み出るくらいに、目を思い切り瞑る。爪の痕が刻まれるくらいに、手を強く握り締める。血液独特の鉄の味がするまで、唇を噛み締める。僕は一体、何をしているのだろう。いや、何をしていたのだろう。目、手、口、それぞれには力が込められるのに、全身に力が入らない。打ちひしがれている。今となっては、桜が揺らめく音も、子どもの嬉々とした歓びも、研ぎ澄まされた刃物のごとく、僕に突き刺さる。それらはもはや、ざわめきにも静寂にも溶け込まない。シャボン玉は、鉛色に彩る。

 「絶望している」

 強がる意味も余裕もない。僕は空を憎む。空が僕をたぶらかしたのだ。空が僕から君を奪ったのだ。空が、空を見るための世界を、壊したのだ。それなら僕はどうしたらいい? それなら、僕は、どうしたらいいんだ?

 僕は決意を固める。たとえ今ここで腕が引きちぎれ、足が切り刻まれ、頭を打ち砕かれようとも、僕は君を探す。落ち着いて考えることによって得た結論は、それしかなかった。僕は、世界を抜け出さなければならない。君を、探しに行かなければならない。空は、味方してくれない。

 「オーライ」

 僕はゆっくりと身を起こす。現実の世界に意識を戻す。思い切り瞑った目を、少しずつ開ける。

 鋭い光が刺す。暗闇を拭い去る。僕は君を求める。

 「空を、見ているのよ」

 君が囁く。僕は自分の目から、空から降る水に似たものが流れていることに気付く。僕は今空を見ていないけれど、きっと僕を伝っているこの水は、さっきまで空を創っていた灰色の部分に違いない。きっと君が見ている空には灰色はないのだ。灰色は、ないのだ。僕が見ていた空よりも、もっと完璧な空を見ているのだ。露ほどの濁りもない、完璧な空。

 「あなたも、見てみればいい」

 声は何処のどんな音よりも、誰のどんな声よりも、僕に響く。再び僕らは、世界に飛び込んでいく。君と僕の世界、ざわめきと静寂を超越した世界。桜の揺らめく音も、子どもの嬉々とした歓びも、透明なシャボン玉として美しく漂う世界。

 「空を、見ようか」

 空気の流れをなるべく淀ませることなく、けれどそれが言葉として迷うことなく機能するように、僕は呟く。一つだけ異なることがある。君と共に、呟く。

 君と共に。

 僕らは、動く空を見上げる。

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 今日の幸福感が書かせた文章。とても良い文章だ。まさか、この1時間足らずの短時間で書き上げることが出来たとは、思えない。

 もっとこの文章に時間を費やす機会が、これから先に訪れるとしたら、それは素晴らしい小説になりうるに違いない。ただ、このままの状態が正しいのだ、とも思う。ここに多くのモチーフを添え、幾つかのメタファーとし、明確なファクターを創り上げることが出来るとしても。

 大切な想いを含む、大切な文章。     circus

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