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2007年1月27日 (土)

荒野

 「王様の耳はロバの耳」という童話だったかの話の中で、人々は王様の耳の秘密を我慢できずに、どこかに吐き出したいという欲求の下、穴の中に叫んでいたと思う。人々はもちろん、何もその穴に叫びたかったわけではない。ただ、どこかへその言葉を投げ出し、何かに吸収してもらいたかったに過ぎない。

 僕は、どこかしら、その穴のような傾向がある。

 それはアイロニーのかけらもないような悪口であったり、建設性の一端もないような愚痴であったり、幸福感への道のりが全く垣間見えないような吐露であったり、気楽な妄想が入り混じったのろけ話だったりすることはあるけれど、僕にとってそれらの話は、否、僕にそれを投げかけてくる人々の多くは、一定の感覚であることが分かる。

 きっと投げかけられるべき対象は、何も僕でなくても構わないのだ。そこに邪魔にならないくらいの存在があり、そこに腰を折らないほど良い相づちがあり、結果として話終えて満足をする自分がそこにいれば、それで良いのだ。そう、まるで「王様の耳はロバの耳」と叫ぶ人々のように。

 けれど、僕はそれを極端に嫌がっているわけではない。人の話を聞くのは好きなタイプだし、忍耐力が身に付く。そして同時に、話す彼らは満足する。誰が迷惑を感じているわけでもないし、誰を悲しませているわけでもないのだ。もちろん、それと同じように、誰に感動を与えているわけでもないけれど。

 僕が穴だとしたら、僕はどこに叫べばいいのだろう。

 僕に投げかけられた不満やら怒りやら、悲しみやら切なさやら、喜びやら照れやら、痛さやら憎しみやらは、空気中に瞬間的に分散し、消滅するわけではない。僕に思い入れがあろうとなかろうと、言葉という形で、あるいはその言葉を受け止めている状況として、僕はどうしようもなくある程度の感情を吸収することになる。そしてそれらは僕自身の多くの感情と入り混じって、僕の中に留まり、溜まることになる。

 しかし、彼らはそんなことはなんとも思わない。当然、僕も彼らに何を言うこともない。それでも、行き場のない感情は僕の中に留まっていく。

 僕がどれだけ感情的な人間かは、自分自身でははかり知ることが出来ない面があるとしても、冷静に客観的に判断して、信号の命令に従うだけの、危険性の排除された、定義の上だけでのロボットよりは、十分に感情が溢れているだろう。人並みというのがどれくらいかが分かりづらい表現だとしても、それは確かに人並みにあるのだ。僕にだって、人並みに感情は、ある。

 僕が吐き出すための穴は、どこかにあるのだろうか。

 僕は少し、穴を掘りたくなった。

 何もない荒野で、誰もいない街で。

 この体を使って。

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 面白い文章。長くはないけれど、すごくフラットな気分でこの文章を書けたことは、なんだか良い傾向。

 僕はフラットという言葉を好んで使うのだけれど、多くの人々は理解が出来ないそうだ。

 音楽でのフラットとかではなくて、平坦とかのっぺりとか、そういう平面的な意味でのフラット。

 フラットということについては、また思うところがあるので、機会があれば書くことにする。

 うまく書ける自信はないけれど。     circus

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