« 街 | トップページ | 荒野 »

2007年1月16日 (火)

許すという奇跡

 おそらく、幾多にも分かれる人間関係における感情や行動において、最も尊敬に値し、逆に言えば最も困難にもなりうるものが、「許す」ということだと僕は思う。それはただ単に、何か分が悪くしたり気を悪くしたりしてしまった際に自らが行使し、または享受する場合においてのみならず、もっと広い場合において「許す」ということは意味を持ちうる。友好の中で、師弟の中で、形式の中で、そして愛情の中で。

 「許す」ということの持ちうる、ひとつ間違えれば危険なほどの意味を、僕はなんだったかの小説の一節で知った。宮部みゆきの何かであったであろうことは記憶しているが、それ以上は定かではない。一節の構成や文脈も憶えていない。そこに記され、僕に投げかけられていた「許す」ということの強い意味の、いわばエッセンスだけが、脳裏に焼き付いている。それは、分かりやすくデフォルメすると次のような例だった。

 ―ある配送業者のトラックは、年の瀬のせいかそれはもう急いでいた。ある少女は、高校帰りに家族との約束の時間に帰るため、それはもう家路を急いでいた。見えにくい信号。滑りやすい路面。交差点。トラックと少女はすれ違う、否、衝突する。勢いよく、少女の身体は跳ね上がる。驚きに、運転手の目は見開かれる。交差点だけが、静かに笑っている。―

 書いてみると、ほとんどが僕の創造になってしまっている。あらゆる部分が、全くもって宮部みゆきの書いた状況とは食い違っているし、類似した部分もほぼない。しかし、中枢は同じだ。要するに、文章の内包する主張するべき何か、は完全に一致している。僕の本来主張したいことは、近くて遠いところにあるにせよ、まずはデフォルメした一節から、「許す」ことの意味を抽出したい。

 果たして上記の例の場合、悪いのは誰だろうか。仮に自動車側の信号が、赤であったとする。多くの世間の人々は「運転手が悪いのだ」と言うだろう。なるほど、間違っていない。僕もまずそう思う。そして仮に少女側の信号が赤だったとする。それでも多くの人々は「運転手の不注意だ」というだろうけれど、一部の人々は「少女の不注意だ」という認識も生まれることだろう。その通りだ、僕も同じようにまず思う。

 そして、一般世界では結論が出される。稀にもう少し踏み込んだ部分まで議論が進むことはあれど、結局のところそれらが裁判にかけられたり、罪を背負うことはほとんどない。かろうじてあるとするならば、記憶に新しいJR西日本の事件くらいのものだろうか。それでも、JR西日本はさほどの罪を背負ったわけではない。

 僕はそれが悪いとは思わない。むしろ、世界とはそうあるべきなのだ、と思う。つまりは一般世界において、その当事者達だけを巻き込んだ結論を得ることは、仕方がないことだからだ。自然ななりゆきだからだ。そこでは僕らは相当に多くのことを「許している」のだ。無意識かもしれないけれど、そういうことなのだ。僕らは「許す」という意味の力によって、世界を成り立たせることができている。僕は紛れもなく、そう信じている。

 僕らは、交差点の信号が見にくく設置されていることを許している。僕らは、路面が滑りやすいことを許している。僕らは、その信号や路面を作ってしまった人々を許している。僕らは、年の瀬に急がせている配送業者そのものを、そして配送業者にそこまで急がせてしまう僕らの慣習を、さらにはその慣習を見直すことのない自分自身やその周りの人々を許している。僕らは、少女に時間をかせた家族を、そしてやはりそうさせてしまう僕らの慣習を、そんな慣習を守ってしまう僕らの律儀さや国民性を許している。もっと言えば、その多くを形成する手助けをしてしまっている世界を許している。また、その世界を形成してしまった過去の歴史や人々を許している。

 けれど、それが正しい。状況によって、はじめの部分に挙げたような業者や周りの人々などを許さざることが、ごく稀にあるとしても、ほとんどにおいて僕らが下している「許す」という判断は正しい。それは誰が疑う余地もない。総てを追求し、総てを許さない世界は起こりえない。それは、世界そのものを許さざることにしなければならないからだ。だから、僕らは多くを「許す」。その力を理解しているかどうかは、別として。

 つまり、「許す」ということは世界を作っている。それだけの意味を、持ち合わせている。しかしながら、僕が本来主張したいことは、そういうことではない。「許す」ということがそれだけの意味を持ち合わせているのだ、ということを前提として、僕は思う。

 最初に述べたように、僕らは友好や師弟、若しくは形式の中で日常生活上、「許す」。そしてなにより愛情という側面において、「許す」ということは大きい。少なくとも、僕はそう思っている。ある人が、またある人を愛するというのは、同時に、ある人がまたある人を完全に「許す」ことと同意ではないだろうか。

 人を愛すると、たくさんの問題が発生する。それは物理的なすれ違いかもしれないし、精神的なすれ違いかもしれない。もしかしたら、性格上しかたがないことかもしれないし、経験上避けられないものかもしれない。言葉に出来うる問題も、出来ない問題も発生する。どちらかが一方的に身勝手であることもあるだろうし、あるいは互いが互いに身勝手であることもあるだろう。誰が悪いわけでもないけれど、誰もが悪い、そういうことが。

 それでも僕らは、人を愛する。人それぞれ対象に対する何かしらの基準はあれど、その基準をクリアし―場合によっては基準をクリアすることなくとも、不思議と愛することはあるけれど―、もうどうしようもない位に、必要性と必然性にかられ、自らの意識以上に人を愛してしまうものだ。最終的には、そこに具体的な理由など、ないように僕は思う。何を愛するとか、何処を愛するとか、そんなことは些細なことで、理由など分からなくとも愛するときは愛してしまうものではないか、と。とはいえ、今はそのことはそれほど関係はない。置いておこう。

 要するに「本当に」人が人を愛するには、そういった数々の問題を、相手を、そして自分自身を、何処まで「許す」ことが出来るかが重要になってくるということだ。おそらく、多くの人が憧れるような、いわゆる理想の夫婦のような状態は、ある意味で完全に許しあっている。もちろん、互いに不満を述べたり、怒ったり、時には涙することもあるかもしれない。けれど、その前後関係やその感情自体を、互いに互いを、自分が自分を許している。だからこそ、その理想の夫婦が離れることは、ない。もしかしたらその二人には、そんなことを想像したことすらないかもしれない。あったとしても、そんな想像すら「許す」ことをしているのだろう。

 あくまで、僕の考えに過ぎない。でも、強ちおかしくもないのではないか。ある二人は、瑣末なことで争う。そして、離れる。また、瑣末なことで争うことなく、些細なすれ違いや思考の相違で、離れる。瑣末な争いにおける感情や行動を、もしも完全に「許す」ことがいつも出来ていたなら、些細なすれ違いや思考の相違における苦痛や困惑を、もしも完全に「許す」ことが日常で、労せず出来ていたなら、そのある二人は離れない。それはどう考えても、誠実だ。

 果たして今言う愛情の中での「許す」ということは、意識的に出来うるものなのだろうか。それとも、無意識に運命的に成り立つものなのだろうか。僕にも、そんなことは分からない。ただ確実に言えることは、「許す」ことが存在しない愛情は、続くはずがない、というよりはそれは愛情とは言わない、ということだ。もちろん、僕自身の考え方にとって、確実に言える、というだけに過ぎないが。

 「許す」ということは、口で言うほど簡単なことではない。それは信じるとか、誓うとか、守るとか、そんなこと達とは比較にならないほど、難しい。なぜなら、「許す」ということの中に、それら総てが内包されているからだ。究極の愛情表現に、他ならない。

 それは、奇跡と言い換えることも、出来るのかもしれない。僕は、そう思う。

---------------------------------------------

 主観だけれど、あとがき。

 僕は今、ある人に対して、何処まで「許す」ことが出来るのか、最大限に悩んでいる状態にある。それは正確に言うと、そのある人をというわけではなく、ある人に接している自分自身を許すのかどうか、ということだ。

 僕は本当に、弱く、浅はかで、わがままで、愚かで、幼い。でもそんな僕にだって、こんな冷ややかなブログを書いている僕にだって、感情はある。自分では理解できないくらいに、どうしようもない感情がある。

 その感情が、僕の考えうるようなものに該当するのか、あるいはそうなるのか。大きな問題だ。瀬戸際にいる。それは僕一人の問題ではないけれど、僕が放棄していい問題でもない。

 僕は僕なりに、ここしばらくのうちに、一定の方向性を定めた。そのままその方向性に流れるかもしれないし、奇跡的にそうでないことも起こりうるかもしれない。それもやはり、僕には分からない。

 僕が本当はどちらを望んでいるのかは、明らかだ。幸せに勝るものは、ない。しかし、その可能性は極めて低い。誰かが助けてくれたなら、などとも思う。でも、そうはいかないことは、分かっている。     circus

« 街 | トップページ | 荒野 »

コメント

どうも、こんばんは。
こっちのブログではお初のコメントです。どれも豊かで読み応えがある文章で、僕なりの思考のきっかけになっています。ぼくの文章力ではこのブログに対して非常に軽いコメントになりそうだし、実際今このタイミングでここにコメントすべきではないのかもしれない、と思いつつもコメントしてみます。

このブログを読んでいて思ったことは、きっとほぼ全てにおいてcircusさんの込めた想いや意味、そしてcircusさんが感じとることとは異なることを、ぼくはこの文章たちから感じているのでしょうが、それでもそのうちのいくらかの感じたことや思考は繋がっているのかもしれない、なんてことで…、それはぼくにとってプラスなベクトルだと言えます。

たまにこちらのブログも読み返したりしていたのですが、今日は特に文章が全身を駆け巡るように、直に飛び込んできました。最近ぼくがここのところ腹の内で溜めていたことにひっかかった感じです。ただその感触がまだ少しだけ漠然としていて、するりと掌からこぼれ落ちていく。それがたまらなく歯がゆい…。

許すということに関しては、身近で簡単な行為なようで、本質的にはどうにもならない難しさを感じますね。いつのまにか知らぬうちに何かを許しているのに、一方で許せない、許せていない何かがあって。進むだけが全ての方向ではなくて後ろを振り向いたって後戻りしたって立ち止まったっていいように、きっと許せない何かを抱えているのもいいのかも知れない。

けれど本当に自分から「許す」ということができたらどれだけ楽で、美しいことなのだろうか。そう思ってしまいます。

>tantanさん
こんばんは。
こちらのブログにもコメントいただけて、非常に嬉しく感じています。

そうなのです。感情や思考の繋がり。僕が何を言おうとしたのか、なんて本当に関係ありません。
学校の国語のテストの答えのようなことは、必要ないんです。この筆者は何を想いましたか? なんて。
もちろん、僕なりの主張がそこにはあったとしても。
ただただ、何かを感じ、考え、どこかが繋がる。
それこそが、このブログの目的なのです。

ところで僕も、「許す」ことを長く言っておきながら、自分では相反する行動や思考をしてしまうことが多くあります。
しかし、僕もそれが自然で、悪くないように思います。
理想は素晴らしいけれど、理想では世の中は回りませんから。
ただ、僕が思うのは、「許す」ということを考えたりするプロセスを持った上で色々抱えていくのと、プロセス持たずに抱えていくのでは、僕としては前者のようにしたいのです。
個人的な姿勢として、志として。

美しい。僕もまさしくそうなりたい。
僕はまだまだ、もがいてあがいている途中なのです。もしかしたら、ずっとそれが続くかもしれませんが。

これからも、ちょくちょく書くので、よろしくお願いいたします。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/79458/4958195

この記事へのトラックバック一覧です: 許すという奇跡:

« 街 | トップページ | 荒野 »