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2006年4月19日 (水)

サイの角

 サイを見に行くには、何処から捉えてもおあつらえな日だった。朝の空気は鋭く締まっていて、尖ったようにキンと程よく冷え、新鮮さを肌で感じる程度で常に風が吹いていたし、太陽はほんの薄い雲の合間からしっかりとその姿を誇示していて、柔らかな嫌味のない温度を地に届けていた。

 僕はと言えば、目が覚めると腹は十分に空いていて、厚めのトーストを2枚、上質なピーナッツバターをたっぷりと塗って食べ、小気味良い酸味の効いたマンデリン・コーヒーを当然ながらブラックで飲み、ブルーベリージャムをほんの少しトッピングした真っ白なヨーグルトを、胃に流し込んだ。

 こういう朝の日にサイを見に行かないのだとしたら、いつ僕らはサイを見に行くというのだろう。もちろん、誰が決めたわけではないけれど、それが正しい態度なのではないか、と強く感じた。テレビでは朝の占いを放送していた。何の根拠があるかは知らないけれど、やたら元気なアナウンサーらしき女性が、すらすらと文章を口にしていた。

 「ふたご座のラッキーカラーはグレー、ラッキースポットは動物園です。かに座は……」

 ほら、そうだろう。おあつらえな日なのだ。別にそれほど占いで一喜一憂する性格ではないけれど、思ったとおりの内容だと、悪い気持ちはしないものだ。もう、誰であろうと僕を止めることは出来ない。これからサイを見に行くのだ。単なる動物園に、単なるサイを見に。

 動物園には、あまり人はいなかった。流石に平日の朝から動物園に来る人など、一端の大人にはそういないのかもしれない。それでも、幼稚園の遠足やら、明らかに観光と思われる老年の団体は少なからず、いた。そして暇そうな恋人達が数組。それだけだった。僕と、幼稚園の遠足と、老年の観光団体と、恋人達。よく分からないけれど、その状況が面白く感じた。さぁ、僕はサイを見に行くのだ。

 サイのスペースの前には、完全に僕独りだった。幾つか置いてある鑑賞、休憩用のベンチにだって誰も腰掛けていないし、アイスクリームの売店には客のみならず、店員も見当たらなかった。なんたる怠慢だろう。今、この僕がアイスクリームを食べたくないから良いようなものの、そうでなければこの動物園はどうしたのだろう。けれど、どうもしないか、と僕は思い直した。たかが僕一人の客の足が遠ざかったからといって、経営に大きな損害を招くわけではないのだし―現実的に、僕にはそんな力も権力も影響力も無いのだ―実際問題では、僕はアイスクリームなんて食べるつもりは無かったのだから、そもそも間違いではなかったかもしれない。

 さて、と僕は体を向きなおし、サイを眺めた。サイは2匹いた。一匹はのそりのそりと餌を食べていて、もう一匹は離れたところに眠っていた。素晴らしい光景だった。サイはこれでもかというほどに角が生えていたし、重々しいほどに立派な体格をしていた。野生のサイというものを生で見たことは無いから、確かなことは言えないけれど、ここのサイ達は、限りなく野生に近い雰囲気を持っていたと思う。動き方とか過ごし方とかではなく、息遣いや取り巻くオーラが、野生のように感じられたのだ。

 それにしても、本当に人がいなかった。サイが特別人気のある動物とは到底思えないにしても、これ程までに人気が無いものなのだろうか。大体、先ほどまでいた幼稚園児達や老人達、恋人達は何を見ているのだろう。あらかた、パンダやキリンだろうか。笹を食べ、無邪気にじゃれる、一見温和そうだけれど獰猛なパンダ。首を伸ばし、今にも手が届きそうな位置まで戯れてくる、華奢なキリン。もしくはサルだろうか。この動物園のサル山はそれなりに有名ならしい。でも、サルなんて見たところで、何が面白いのだろう。似たようなものを、僕らは毎日飽きるほどに見ているというのに。

 僕は再びサイに向きなおした。肌は地味なカーキグレーといった色味で、相変わらず片方は餌を食べ、もう片方は眠っていた。しばらくすると、餌を食べていたサイも、ごろりと横になった。なるほど、と僕は思った。この動物は確かに、幼稚園児向きでも老年向きでもないのだ。余りにも厳か過ぎるし、あまりにも神秘的過ぎるのだ。同時に、あまりにも退屈過ぎるのだ。

 ―サイの角は、いつから生えているのだろう―

 そんな疑問が、ふと頭をよぎった。あの果てしなく無骨で、ゴツゴツと力強い角。生まれたときから、生えているものなのだろうか。もしそうだとしたら、相当に面白い。小さな頃からサイは、可愛らしいサイズの角を振り回し、紆余曲折の末、あの太い角を振り回すようになる。なんとドラマチックでファンタジックなのだろう。では、違ったらどうだろう。

 もし、生まれたばかりのサイには、角が生えていない場合だ。僕はそれを、サイと呼ぶことが出来るであろうか。自信がなかった。荒々しい肌や、恐竜を思わせる足、そして奥に深さが伴う目も、サイであることを主張しているし、僕はそれを認めてはいるが、それ以前として、僕は角でサイをサイであると認めている、そんな節があるのだ。僕は、あの角の中にこそ、サイのアイデンティティを見出している。

 だからこそ、大人のサイは尊敬に値する。あの他に類の無い角は、どんな動物よりもサイをサイたらしめている。ウサギのキュートな耳も、牛の鳴き声も、フラミンゴのピンク色も、パンだのぶちだって、キリンの長い首だって、サイの角には敵わないのだ。

 「その角を、僕にくれないだろうか」

 僕はサイに話しかけていた。返事があるはずはないけれど、そうせずにはいられなかった。僕は、角を求めていた。より強固で、よりリアルな、僕の角を。このサイのように、自らを完全に規定できるほどに完全な角を。僕はそれをサイの角に求めた。サイを見る意味は、あるいはそこにあったのかも知れない。

 そうこうしているうちに、陽が傾いてきたので、僕はあっさりと家路に着いた。家に着いたら、僕は再び腹が十分に空いていることに気がついた。それもそのはずだった。僕は、朝に家を出てからというもの、昼食を食べることも忘れ、サイに見入っていたのだった。

 僕は、精神誠意をこめて米をとぎ、白米を炊いた。そして、豚のばら肉に下味の塩コショウをふり、梅肉とゴマを合わせて叩いたものをその肉で挟み、強火でサッと焼きあげ、付け合わせには茹でたジャガイモとアスパラを添え、別皿に残り物のタコとマグロの刺身を盛り、椀には滑らかな絹ごし豆腐とワカメの味噌汁を、かつお出汁が七割と昆布出汁が三割の割合で仕上げ、野沢菜の漬物を少しだけ小皿に取った。

 あっという間に、それらの総てをたいらげてしまった。白米にいたっては、珍しく2杯もおかわりをした。その甲斐もあってか、僕は非常に満足していた。精神的な安定は、思考にも変化をもたらすものだった。僕は今日の出来事を思い返していた。

 僕は、角をサイに求めた。僕の角を、サイに、求めたのだ。それは著しくおかしいと思った。サイに感化されすぎていたのだ、と感じた。僕がサイの角を身に着けたところで、僕は何になるのであろう。サイになるのだろうか。サイの角のあのアイデンティティを手に入れ、サイになったのであろうか。たとえそうだったとしても、それは明らかに間違っていることだった。サイはサイ以上でも以下でもありえないし、僕だって同じことなのだ。物事には、摂理がある。サイにとっても、僕にとっても。

 そんなことを思うと、急に際限の無い眠気が僕を襲ってきた。逆らうことは、出来なかった。正確に言えば、考え付きもしなかった。僕は眠気の流れに身を任せた。とても心地が良かった。ごろりと横になると、全身の力が満遍なく抜け、頭と体が分離していくのを感じた。深く緩やかなまどろみの沼へ、僕は沈んでいった。まるで昼間のサイのようだった。

 「ボクの角をあげるよ」

 幾分小柄なサイが、僕に手を差し伸べていた。その手の上には、やはり幾分小柄な角が置かれていた。それは微かに輝いていた。アイデンティティが、浮き彫りになっていた。

 「遠慮することはないさ、ボクには必要ないんだ。キミにあげるよ。キミは欲しかったんだろう?」

 僕は右手を伸ばしかけた。角に、触れようとした。右手はいつにないくらい、熱を持っていた。

 「僕は、君の角はいらないんだ」

 僕は声を絞り出し、右手をそっと引っ込め、左胸に当てた。小柄なサイは、明らかに残念そうな、悲しそうで寂しそうな目をして、僕を見た。そして、後ろを向いた。尻尾が可愛らしかった。

 「バイバイ」

 小柄なサイは呟くと、ふっと姿を消した。

 「バイバイ」

 僕はもう消えてしまった小柄なサイに向かって、言った。きっと、聞こえているだろうと思った。聞こえて欲しいと思った。

 目を覚ますと、いつもの部屋があり、また素晴らしい朝が僕を包んでいた。僕はそっと左胸に手を当ててみた。暖かかった。そこには、サイの角ではない、確かな僕の角が感じられた。

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 久しぶりの更新。ちょっと長めの文章。荒削りで、幼い文章だけれど、僕は書いていて気分が良かった。サイは、本当に大好きだ。力強く、たくましく、かわいい。

 この文章を読むと、少しばかり飛んじゃっている印象を受けるかもしれない。色々な意味で。でも、僕はいたって正常な中で書いているので、あしからず。

 そのうち、とあるきっかけで書いた超短編小説をアップしたい。個人的には、面白く仕上がっているので。いつになるかは、未定。書きたいコトはまだまだある。でも、ガス欠にならぬよう、マイペースで。     circus

 

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