2008年7月24日 (木)

 色とりどりの光を見上げて 君は何を想い笑うだろう

 雲間に覗く月明かりと共に 僕は君を想い 声にならない声を吐き出すんだ

 「風よ吹け」 この揺るぎない けれど幼くも儚い心が

 舞い上がる光を纏わせ わずかでも君のもとへと 届くように

 大げさな夢や言葉は ほとんど僕は持っていないけれど

 あるがまま握り締めた 誇るべき想いは胸に抱えている

 まるで光の花 そうだ 君が好き

 水面に浮かぶ波紋がぶつかり また新しい波紋が広がる

 そんな風に日々は刻々と流れ過ぎ行き 悲しく虚しい 想像を時にはしてしまうんだ

 青 赤 黄色 オレンジ 緑 白 紫 そしてピンク

 舞い上がる光は瞬き 黒を超え君のもとへと 届くかなぁ

 語るような夢や言葉は ほとんど僕は捨ててしまったけれど

 大切なと灯火だけ いつだって一つ胸に抱えている

 光る花のために そうか 君が蕾

 余計な飾りなんて必要ない ただひたすたに単純でいい

 舞い落ちる小さな光のように たとえいずれ消えるとしても

 大げさな夢や言葉は ほとんど僕は持っていないけれど

 あるがまま握り締めた 誇るべき想いは胸に抱えている

 まるで光の花 そうだ 君が好き

 まるで光の花 そうだ 僕は好き

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2008年3月18日 (火)

空ばかり見ていた

 つむじ風の遊歩道 三日月追う靴音

 そっと吐き出す息はまだ白く 空に溶け込んでゆく

 馳せる夢と想いを ひそやかな呟きを

 ちょっと吐き出し星を見つめる 「大層なもんじゃない」

 君は今どうしてるかなぁ 柔く笑っているのかなぁ

 僕は今考えている どうしようもないこと考えてる

 明日にはまた君と共に 肩を並べて笑えますように

 かすかでもそう君と共に ただぬくもりを抱けますように

 想いながら 空ばかり見ていた

 動き出した電車の 灯かりが僕を追い越す

 「きっといつかは」 そんな風に想う 鳴り始めた鼓動

 道を辿り 部屋に戻る 眠りにつき 朝を迎える

 その間考えている 正直に無邪気に考えてる

 明日にはまた君と共に この世界を歩けますように

 願わくばそう君と共に ただぬくもりを創れますように

 想いながら ほら想い続ける

 この声が羽を携え ゆらめき飛ぶ歌に変わって

 彩られた街を抜けて 正しき場所へ届くように

 明日にはまた君と共に 肩を並べて笑えますように

 かすかでもそう君と共に ただぬくもりを抱けますように

 明日にはまた君と共に この世界を歩けますように

 願わくばそう君と共に ただぬくもりを創れますように

 想いながら 空ばかり見ていた

 空ばかり見ていた

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 詩の形式と、文章の形式が同時に浮かび上がることは、誠に珍しい。

 どちらも、大切な存在になりうる気が、する。

 そちらが好きかと問われると、非常に困るものだ。

 思えば、案外僕は空ばかり見ている。

 晴れた日も、雨の日も、朝も、夜も。

 とりわけ夜は、空ばかり見ている。

 大切な何かを考えながら。     circus 

2008年3月 5日 (水)

不思議な夢というものは、案外覚えていないものだ。

たとえば、出だしのあるワンシーンや、最後の締めくくりは覚えていても、一体何が不思議だったのか、肝心なところは忘れていることがよくある。

けれど、僕たちは現実の中で、何とかその不思議な夢を思い出そうとする。そして思い出す。が、そうして出てきた不思議な夢は、たいてい現実から見た、不思議な「作り話」になってしまう。実際に見た夢とは、かけ離れていく。

僕は今日、不思議な夢を見た。そして、珍しく僕はその夢を完全に掴まえている。作り話などではなく、完全にありのままを記憶している。

夢の始まりは僕の家の扉だった。なんだか、外に飛び出さなくてはならないような圧迫感を感じたので、僕は潔く扉を開け、足を踏み出した。

すると、そこはだだっ広い丘だった。家から出ただけのはずなのに、見知らぬ土地に来ている。僕は驚愕のあまり後ろを振り向いたが、そこには出てきたはずの扉は無く、ただ丘が続いているだけだった。

丘は二つの点を除けば、単なる丘だった。ひとつは、何も動いていないこと。草も風も、空も雲も、あるいは太陽の光さえ動いていなかった。僕だけがゆっくりと歩いていた。

そしてもうひとつ、大きな穴が丘のてっぺんにあったこと。覗き込むと、先は目がくらむほどの闇で、何処まで続いているのか想像もつかないくらいだった。

僕は、どうしようもなくその穴に魅かれた。穴に落ちてみたくなった。穴の先を知りたくなった。だから、目を瞑り、一気に飛び込んだ。

何時間落ちたのかわからないが、なにやらやわらかい感触が足に感じられたので、目を開けた。……雲の上だった。

雲の上に立つなど、漫画みたいな話だが、確かにそこは雲の上だった。雲はふわふわとしっとりとしていたが、一方でとてもがっしりとしていた。とりあえず食べてみもしたが、味は特に無かった。

雲の上には、雲しかなかった。右も左も、前も後ろも、雲しかなかった。とても心地がいい場所だった。温度も湿度も、すべてが完璧なように思われた。しかしなんとなく、不完全な完璧さを僕は感じていた。少し疲れていた僕は、ごろんと寝転んだ。

はしごが見えた。

モクモクとしているから形がわかりづらかったが、僕の頭上にはしごが見えた。正直、どうでもよかった。はしごなんて興味もないし、ましてや昇ってみたくもなかったし、何より、僕はまだ寝転んでいたかった。しかし体はそれを許さなかった。

勝手に足が動き回り、手がはしごを握り締めていた。僕は諦めてはしごを昇った。ずっとずっと、雲がかすむまで昇った。

はしごが途切れたところは、トウキョウの大通りのマンホールだった。もう一度下を見たが、そこにはもう雲は陰も無かった。こうしていても意味が無いので、マンホールを出た。

その瞬間、目の前からとてつもないスピードで車が突進してきた。僕はぶつかると思い、ふいに若い死を覚悟した。

しかし、車はぶつからなかった。いや正確に言うと、車は僕を通り抜けた。僕には一切衝撃は無く、車も平然としていた。

次の車も、そのまた次の車も同じだった。まるで僕がそこに存在していないかのように、通り抜けていった。嫌な気はしなかった。けれど気持ちが良いものでもなかった。混乱と云う表現が、もっとも適切なようにも思われた。僕はとにかく落ち着こうと、何処か休めるところを探した。

僕は寂れた喫茶店を見つけた。少々ためらいはしたが、他にめぼしい場所が見当たらなかったので、観念して入ることに決めた。

扉は自動ドアになっているはずなのに、ドアの前に立っても開く様子は微塵も無かった。自動でない自動ドアは、やたらに重かった。やっとのことでドアを開けた。

ドアが開いた向こうに見覚えのある部屋が見えた。そしてそこにはよく知っている後姿があった。

僕だった。そこは僕の部屋だった。そして、まさに僕がドアを通ると同時に、目の前の僕は、家の扉から外へ出て行った。

そこで、目が覚めた。夢の中ではこれらはとても不思議に感じた。ところが、今考えると、夢のすべてを覚えてはいたが、ならば何処が現実に不思議かと言われると、今の僕は、全くもって閉口してしまう。

僕は今、回目の雲の上に立っている

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 うーん、文章が若い。随分若い学生のころに書いた文章が、出てきた。今思えば、同じ題材で同じ流れで文章を書いたとしても、こうはならない。

 今と昔。どちらが優れているとはいえないけれど、妙に恥ずかしい気分になるのはいたし方がないのだろうか。

 若い。     circus

2008年2月20日 (水)

僕は、春。

 まだかまだかと待ちわびる春は、まだ来ない。冬の匂いは影を潜めて、幾分ゆるやかな陽射しの世界が増えてきたけれど、まだ春と呼ぶには遠い。

 晩冬。そうかもしれない。晩冬という言葉の響きが、最も今の季節には近いかもしれない。どことなく、暗くひそやかなイメージが膨らむ。言うなれば、いつもの帰り道の途中に、ふと街灯が途切れていることに気付き、さらにはふと自らの孤独にも気がついてしまい、心がどこかに分散してしまうようなイメージ。いささかオーバーな気もするけれど、表現上に嘘はない。

 季節にはそれぞれ匂いがある。冬の匂いは影を潜めたのだけれど、細分化した意味での冬の匂いはまだ街を漂っている。

 春夏秋冬。ひとまずの括りはこの四つ。そしてそれぞれがさらに三つずつに細分化される。つまるところ一年の月の数と等しくなる十二の匂いが、世界を占める。もっともっと細分化することも出来るけれど、それはもはや意味がないように思える。厳密にしてしまえば、一日ずつ、あるいは一時間ずつでも匂いは異なるものなのだ。

 「好きな季節はいつですか」

 例えばそういう問いが投げかけられれば、僕は間違いなく春と答える。淀むこともなく、惑うこともなく、はっきりと確かな響きで春と答える。そしてまた、自らが同様の問いを投げかけた際には、相手が春と答えを導くとなぜか心が和らぐ。

 「春は好きですか」

 こう問うのは、実は野暮だ。春はおかしな季節で、おかしな事件や人も増え、いつも以上に陽気で、その空気感を少しばかりいぶかしく思う人もいるけれど、全くもって春など好かない人間に出会ったことはない。

 「君はどうだろうか」

 柄にもなく、そんなことを考える。僕はいつも出来る限り多くのことを考え、出来る限りそれぞれにバランスよく重きを置くようにしている。だからこそ、必要な時に自らの頭の中で混乱を招くこともあるけれど、それが僕の考え方だから仕方がない。マグロが常に海を回遊するようなものだ。僕は常に思考の中を回遊する。

 しかしながら、今回のこの考えだけはどうも異なる。「君はどうだろうか」という問い、突き詰めて言えばその問いの「君は」という部分に、随分と重きを置いてしまっている。

 春が好きだったら良いだろうな、と思う。けれどたぶん、それは違う。

 「僕は君が好きだ。君はどうだろうか」

 突如として、春の思考を飛び越えて、そんな思考に達する。いかにも幼稚な昇華であり、いかにも大切な昇華でもある。

 春の匂いが訪れるまでに。春を笑って過ごせるように。

 きっとこの思考は姿を変え、具体的な事象として動き、暗闇の中で春を待つ。

 静かな息吹だけを携えながら、進む。

 確かなタイミングと、確かな心を、合わせる。

 「好きな季節は、いつですか」

 僕は、春。

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 春に関する何かを書きたいと思って、ただつらつらと書き連ねた言葉達。

 冬の彩から春の彩に変わる。冬の匂いから春の匂いに変わる。冬の心から春の心に変わる。

 今年の春は、良い春になれば良いなぁと、想う。     circus

2008年2月12日 (火)

1・2・3

 ワン・ツー・スリー このリズムで君と街を歩いてゆく

 イチ・ニィ・サン 深呼吸して太陽の匂いをかぐ

 見上げる空はやはり青くて 白い雲を指折り数えてみる

 これから巡り合う喜びを 思いながら少しはにかんで

 笑いも涙も夢も 愛も何もかも総てひっくるめて

 僕と君は生きる

 変わり映えしない日々でも どこか何となく二人幸せを

 創りだせるような気がするから

 アン・ドゥ・トロワ 口ずさんで胸の奥から沸き上がるほど

 一人でも君とのこと 想って考えたりして

 抱えた言葉 やけに多くて 選びきれない 伝えきれない

 だから揺るぎの無い喜びを 想いながらこんな歌を唄う

 笑いも涙も夢も 愛も何もかも総てひっくるめて

 僕は君が好きだ

 悲しく苦しい日々さえも きっとどこからか二人幸せを

 見つけ出せるような気がするから

 大層なもんじゃないけど

 そうだ 1・2・3 二人のリズム

 笑いも涙も夢も 愛も何もかも総てひっくるめて

 僕は君と生きる

 笑いも涙も夢も 愛も何もかも総てひっくるめて

 二人幸せを見つけ出せるような

 創りだせるような気がするから

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 数ヶ月ぶりに、歌詞を書いた。貯めていたのとはまた異なるメロディーが見つかって、それがあまりに気持ちよくて、自然とイメージができた。

 相変わらず風景描写だとか、具体描写が少ないけれど、悪くない。

 この歌が気持ちよく唄える日がくれば、素晴らしいなと想う。     circus

2008年2月 7日 (木)

 突然、うららか過ぎるほどになめらかな歌が聞こえてきたと思ったら、木漏れ日の中に君はいた。どこかで聞いたことがあるような無いような、何の歌かは浮かんでこないが、とてもやさしい歌だった。

 「その歌は、何ていう歌だったかな?」

僕は自分の出来うる限り柔らかな声で尋ねた。本当は口を挟みたくなかったが、君に話しかけたい気持ちが勝ってしまった。

 「嫌い?」

今度も突然歌うことを止め、僕に返してきた。

軽く木漏れ日が揺れた。

 「そんなことはない。」

 「じゃあ、よかった。」

君はそっと微笑んだ。かの歌は、特に好きというわけではなかったが、確かに嫌いではなかった。君は少しだけ眩しそうに目を細めながら、再び歌い始めた。

君が一体何曲歌ったか、分からなくなった。それらの中に知っている歌もいくつかあったが、大半はやはり記憶の曖昧な歌達だった。僕は、君の隣の木漏れ日に場所を移した。けれど、話しかける気持ちはもうしなかった。その必要はとうに消えうせていた。

 「退屈かしら?」

 「え?」

歌の途中で、まさか君から言葉を出すとはまったく考えていなかったから、驚いて返事が出来なかった。

 「あなたは、私といて、退屈かしら?」

君はより噛み砕いて、そしてわずかに不安げに僕に投げかけた。

ぐっと、木漏れ日が揺れた。

 「全然、退屈じゃない。」

君は言葉ひとつ返さなかった。その代わりに、前よりも大きく微笑み、そして歌の続きを歌いだした。退屈なわけが無かった。もちろん、僕と君との間では、ほとんどと言っていい位に生産的な、建設的な活動は行われていなかったが、それは退屈かどうかとは別次元の問題だった。

 「むしろ、楽しいさ。」

僕は、自分に言い聞かせるかのごとく呟いた。当然、そこに嘘は無かった。

静かに木漏れ日は揺れ、静かに君は歌い続けた。

 「もっとずっと、この声で歌を聴いていたい。」

君はゆっくりと微笑み、またやさしい歌を歌い続けた。

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 今の心持ちというか、感情というか、そういったものが滲んで出てしまっている。

 こと創作している文章に関しては、少なくとも自分の視点としては、自分のリアルな感情はあまり関わらせないようにしているのだけれど、時にこうなってしまう。

 優しい声が、聴きたい。     circus

 

2007年12月 1日 (土)

ファインダー

 「シャッターをね、下ろす瞬間が、たまらないんだ」

 君は黙々と様々な方向にカメラを向けながら、嬉々として言う。君がファインダー越しに覗いている景色は、僕には正確には分かる筈もないのだけれど、その世界を想像してしまう。否、想像せずにはいられない。そうしないことには、僕はこの空気を楽しむことが出来るわけがない。

 「重いような、軽いような、なんとも言えない音がね。そしてシャッターボタンの感触も」

 僕もカメラは人並み以上に好きだし、色々な自論も持っているから、君の言う感覚は掴める。というよりも、確かに君のいうそれは、カメラの魅力の大きな一つ、それも中枢にある部分の一つと言っても過言ではない気がする。

 例えばシャッターボタンを押す瞬間、その感触がまるで豆腐に指を突っ込むような感触だとしたら。あるいは、シャッターが下りる瞬間、その音がまるでαゲルに卵を落としたような音だとしたら。きっと世の中のカメラに対する流れは革命的に違っていたかもしれないし、その結果としての写真も決定的に違っていたかもしれない。世界に溢れる素晴らしい写真の数々は、生まれなかったのかもしれない。

 「撮っている間は、出来上がりが上手くいくのかどうかなんて、気にしないんだ。気にし始めると、二度とシャッターが切れなくなるから。だってそうでしょう? 毎度毎度自分の思い通りの写真を撮れる人間なんていないし、そんな撮り方をしていたら自分の想像以上の写真が撮れなくなってしまう。それほどつまらないことは、ないよね。目の前に広がっている世界は、ファインダーの先には、私達の想像よりも遥かに深くて美しくて、どこか闇を抱えていて、ああだこうだって複雑なものなんだから」

 基本的にフィルムカメラしか、使わない。君はデジタルカメラも持ってはいるけれど、それはデジタルカメラが使いたいからでは、ない。デジタルカメラを体験し、知っておくことで、フィルムカメラに対する姿勢や想い、その強さを自ら再認識し、受け入れ、現実的に力を注ぐことが出来るからだ。僕は、君からデジタル仕様の写真を見せてもらったことなんて、一度たりともない。それが、何よりの証拠だ。

 でも、僕は不思議に思う。デジタルは明らかに便利だし、現代ではクオリティも非常に上がっている。もちろん色合いの深みや、出てくる像の温かみなどはフィルムとは異なるし、どうしても無機質な雰囲気が漂ってしまうのはあるけれど、それを補って余りあるポテンシャルは持ちえているはずだ。ましてや、シャッターを下ろす段階においては、もはやフィルムと大差がないものだって、ある。

 「カメラが好きな人ってね、二種類いると思うんだ。カメラ自体が好きで、『写真を撮っている』という行為に最大の魅力を見出す人。それと、もちろんカメラ自体も撮る行為も好きだけれど、何よりもカメラを通した世界、写真を通した世界に最大の魅力を見出す人」

 どう考えても、君は後者だ。そして僕は「自分がカメラを使う前提において」は前者だ。僕は自分自身がカメラを構える際は、何故かそうなってしまう。世界を楽しむことよりも、シャッターを下ろすことそのものに楽しさを強く感じてしまう。それが、悪いというのではない。ただ、君とのベクトルが異なるというだけだ。しかしながら、それは表層的に悪くはないけれど、本質的には良くもない。

 『撮っているという行為』を楽しむ段階においては、フィルムもデジタルも関係はない。むしろ、デジタルの方が手間がかからないし、いくらでも撮ることが出来るし、申し分ない。シャッター音だって、酷くはない。かといって、僕もデジタルを使っているわけではないのだけれど。

 「どっちが良いとか、そういう問題じゃあないよね。でも私は、世界が見たいんだ」

 僕が君と同じファインダーを持っていたら、どれだけ素敵なことだろうと、想う。でもそんなことは下らない希望的観測、若しくは出来損ないの空想に過ぎない。

 「ありがとう、ごめんね」

 僕は紐のぶら下がったポラロイド690を取る。両手でそのカメラを握り締める。ゆっくりとファインダー越しに世界を覗く。その世界には、誰もいない。君もいない。左手で対象を定める。右手でシャッターボタンを覆う。

 下ろす。

 確かな今が、映し出される。

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 現実を言えば、デジタルカメラもフィルムカメラも、ポラロイドカメラも、僕は大好きだ。デジタルにはデジタルの趣があり、フィルムも然り。

 そのどれもに共通して言えることは、それは「今」を映そうとしているということだと、僕は思う。

 写真は、その「今」の切り取りであり、いわば「今」を切り取る際の副産物と言っても良い。

 今の僕のファインダーの先には、あまり良い風景は映っていないのかもしれない。

 でもそれは、変わる風景だ。流動的な、風景。

 カメラは、総てを映し出せる。     circus

2007年10月28日 (日)

ジャズ

 音とは空気の振動や塊りであり、風は空気の流れや塊りだ。振動と流れは物理的に言えば確実な違いはあるにせよ、一般の暮しの中では大層な違いがあるわけではなく、むしろ同じような存在として捉えることも、時としてはふさわしいような気がする。音とは空気の流れや塊りであり、風は空気の振動や塊りだ。

 つまり、心地良い音は心地良い風であり、心地良い風は心地良い音と言っていい。

 スウィングに身を委ねる。ビートに心を乗せる。コードに脳を捧げる。そうすることで、はぐれた欠片を拾い集め、砕けた粒を寄せ固め、散らばった真実を箱に詰める。あるいは、その工程を逆に辿る。どちらにしても、それらは僕を困惑から救い出し、焦燥など吹き飛ばし、希望を照らし出してくれる。大げさなように思えるけれど、本当のことだ。

 アーモンド、カシューナッツ、ピーナッツ、クルミ、そしてピスタチオ。それぞれが音を引き立て、風を巻き込む。ソルティードッグ、ブラッディーメアリ、モスコミュール、ジントニック、ピナ・コラーダ、そしてカルアミルク。それぞれが風を融け合わせ、音を包み込む。

 性別や年齢などなんの関係性も持たず、確かな一点で、一瞬で、一つになる。

 ピアノが弧を描く。ドラムスが宙を叩く。ウッドベースが時を弾く。たった3つのピースが、幾つもの複雑なハーモニーを生み出す。風の交差点、音の円。

 シックで、トレンディで、トラディショナルで、ポップだ。

 また、会える日まで。

 JAZZ。

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 驚くほどに、飛び交う文章。改めて読んでみると、僕のジャズに対する姿勢がなんとなく分かる。

 純粋だ。     circus

2007年10月17日 (水)

カタパルト

 「突風?」

 「いや、これは単なるそよ風に過ぎない。"とっぷう"は君が思うよりもっと、激しく、そして硬い。」

 「硬い?」

 「そうさ。こんなもんじゃあない。いずれ、分かる。」

 「でも、僕にとっては、十二分に厳しいんだけれどな」

 「厳しいには、違いない。しかしながらそれは、厳しいだけだ。決して激しくはないし、ましてや硬くもない。無論、"とっぷう"にしてみれば。」

 「随分と評価するんだね」

 「いいや、評価がどうの話じゃあない。あくまで、実質的な事実を述べているだけさ。」

 「なるほど、一応君の言う主旨は分かる。主旨は、ね」

 「それで構わない。さぁ、行こうか。」

 僕らは、旅立つ。

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 するすると、突風という言葉から始まり、さらさらと言葉を書き留めた文章。かなり、好きだ。

 ある種の、旅立ちの文章。それも、面白い。     circus

2007年9月23日 (日)

一葉

公園前の銀杏並木を 僕は今一人で歩き

少し冷えた風 肌に感じ 深く息を吸い込む

ささやかに響く虫の声と 踏みしめて生まれるハーモニー

何処か切なくて物足りない音が 胸を吹き抜ける

本当は気付いている 忘れようのない煌き

鼓動が加速していく 君の声を求めている

サヨナラも言えないまま 僕の左手はからっぽになった

アリガトウと呟いても 空廻って消えていってしまう

だから歩く あの頃のように

夕暮れ時に駅のホームの ベンチに腰を下ろして

過ぎ行く電車と行き交う人 眺めては目を閉じる

何もないその向こうに 手を振っては涙流して

情けない笑顔映す 君の眼を探してるんだ

サヨナラと言えたならば 僕の心は裂けることもなく

アリガトウと言えたならば 満たされた涙を流せたのだろう

考えてみる どうしようもなくても

クローゼットの奥の引き出し 君の丸文字のダイアリー

めくったページにただ一言……シアワセ

サヨナラと言えなくても 僕は君の声を憶えている

アリガトウと言えなくても 僕は君の笑顔憶えている

いつの日か生まれ変わり また巡り合うことが出来たなら

この心とこの想いを 宙に解き放ち 君の名を呼ぶ

公園前の 銀杏並木で

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 初めに浮かんだイメージは、銀杏並木だった。それは何処か切なくて、もの悲しくて、ひそやかで、でも何か大切な想いが潜んだイメージだった。

 そのイメージを確たる形にするのは、非常に困難だった。けれど結果として、そのイメージは一つの世界になり、一つのストーリーになり、一つの詩になることが出来た。

 素晴らしい曲に、なった。     circus

2007年7月 2日 (月)

声を枯らし君の名を呼ぶ 喉を揺らし唄を歌う

耳を澄まし心の音聴く 波を感じ胸を焦がす

かつて描いた夢の続き 今でもまだ憶えている

ただ確かな違いが生まれ 君が描き足されている

想い昂ぶり涙に変わり 涙堪えて笑みを浮かべる

笑みが募り積もり織り重なり いずれ君に繋がると信じて

―同じ時の中 駆ける君に頬が綻ぶ 

僕はゆっくりと歩を進めて肩を並べる

春も夏も秋も冬もやがて手を取り合い

染み渡るぬくもりは 二人の日常を語る― ニチジョウニカタル

忘れたくない日々や言葉を 失くしたくない時や記憶を

漠然とした不安や恐れを 掻き集めてそして生きていく

―同じ時の中 駆ける君に頬が綻ぶ 

僕はゆっくりと歩を進めて肩を並べる

春も夏も秋も冬もやがて手を取り合い

染み渡るぬくもりは 二人の日常を語る― ニチジョウニカタル

声を枯らし君の名を呼ぶ 喉を揺らし唄を歌う

耳を澄まし心の音聴く 波を感じ胸を焦がす

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 最近はこういうパターンが多い。文章にインスパイアされた詩。今回は「日常」からインスパイアされたものだ。

 分かるようで、分からない。伝わるようで、伝わらない詩になってしまったと思う。でもそれはある意味で言えば、捉える側の解釈に託せる部分が多いということでもある。

 たぶんこの詩も、後々に、とても大切な詩になる予感はする。

 そうなれば、良いと想う。     circus

2007年6月22日 (金)

うまいひとたち

 「これはこれは、とてもけっこうな、こーひーですね」

 僕はいつだって、喉の奥の辺りにタブレットがほんの少し引っかかったような、気が気でない心持ちになる。フクロウは誰が相手でも、どんな時でも、こういう喋り方をするのだろうか。あるいは、僕のところにやってくるフクロウだけが特別なのか、そんなことは分からない。

 フクロウはとても丁寧に言葉を発する。一つ一つの言葉をくっきりと、必要以上にフクロウなりの文節を強調し、敬語を忘れることが無い。複雑な単語は使わないし、決して語気を荒げたりもしないし、囁くように優しく空気を揺らす。ある意味においては、マナーの塊と言っても良いと思う。多くの人は、好印象を抱くと思う。でも僕にとっては、その安定性と柔軟性、落ち着き払った話し方が妙に焦りを誘発し、混乱を招く。フクロウ的に言えば、ごく単純に「気に入らない」というだけかもしれないけれど。

 「いやいや、ほんとうに、おいしいこーひーです」

 フクロウは返答があるまで、何度でも同じ話題を繰り返す。

 「それはどうも。ゆっくりと淹れた甲斐があるよ」

 僕は耐え切れずに笑顔を作り、返す。

 「まめは、どこのくにの、ものですか」

 「東ティモール。まだまだ未成熟なコーヒー国だけど、悪くない豆を作る」

 「きっと、とおいくになんでしょうね。わたくしはにほんから、でたことがありません、はずかしながら」

 「何も恥ずかしいことなんかないさ。日本にいれば、大抵が事足りる。僕達だって、こうして東ティモールのコーヒーを飲むことが出来ている」

 日本出身のフクロウは初めてだ。この前現れたフクロウは南米だと言っていたし、その前はオセアニアだと言っていたような気がするけれど、違いがそれほど、いやほとんど全く掴めない。それにしても、なんだって僕はこんな昼間っから、語り合わなければならないのだろう。フクロウは夜行性だと言うけれど、とんでもない。猫を被っているに過ぎないのだ。でもそれもこれも、僕が昨日油断していたせいだから、どうしようもない。

 昨日僕は、映画を見ていた。ゾウの出てくる映画だ。ドキュメンタリーとアートの間を縫うような映像で、自然の神秘を撮っていた。基本的には、ゾウとヒトを中心として進む。そこではゾウはヒトと対等で、もしくはヒトよりも賢く尊い存在としてゾウが成り立ち、僕達が日常の生活では吸い込まないような空気を、作り出していた。少なからず僕は、多くの哲学的事項に思いを巡らせ、浅はかながらも思考を深めたりした。そうしてゾウの映像は滞りなく進み、シーンが変わった。ゾウが主体の映画ではあっても、その他にチンパンジー、ヒョウ、コンドルも出てくる。その、コンドル。

 「きれい、ですね」

 コンドルが素晴らしい滑空を見せ、その周りを女性が美しく舞っている映像。その時、ふと後の席から声がしたのだ。僕は映像にこれでもかというほどに熱中していた上に、本当にその舞いが綺麗だったから、それがフクロウの声だなんて思いもしなかったのだ。今にしてみれば、確かにその時の声はやけに落ち着き払っていたし、平坦すぎるほどに素直だったし、紛れも無く目の前にいるフクロウの声なのだけれど。

 「素晴らしいと思う」

 「あなたも、そう、おもわれますか、やはり」

 「ええ、これは素晴らしい」

 「わたくしは、このすばらしさについて、もっともっと、かたれます」

 「僕もそうだな」

 「このすばらしさいがいも、もっともっと、かたれます」

 「右に同じ」

 「いかがですか、あしたにでも」

 そんな風な具合だったと思う。なにぶん、映像に意識を集中していたから細かくは憶えていない。そこで僕は「構わないよ」と言ってしまったのだろう。そうフクロウが言っていた。僕はアドレスを教えていないのに、フクロウがどうやってここにたどり着いたのかは気になるけれど、起きてしまったことは悔やんでも始まらない。

 「ところで、今日は何について語り合うのかな」

 これ以上コーヒーについて話していても進展が見られそうに無いから、僕は無理にでも本題に移したいのだ。

 「さくじつのえいがについて、でもよいのですが、じつはおりいった、おはなしがございまして」

 ただでさえ丁寧なフクロウが、さらに改まっている。

 「じつはその、これを、かっていただきたくて」

 いそいそとフクロウは小さな銀色の梟を取り出した。まるで自らを縮小したような梟。見たところ、純銀ではないように思える。

 「これは、材質は何かな」

 「しるばー、はっぴゃくです。じゅんぎんもよいのですが、あえてここは」

 なるほど。ここまで細かい加工をするのには、スターリングシルバーではちょっと厳しい。それなりの削りの強さに耐えられるシルバー800でなければ。それでもスターリングシルバーよりも強く輝いて見えるのは、おそらく表面にロジウムか何かのコーティングを施しているのだろう。贔屓目なしに、随分とまともなものだ。

 「とても綺麗な梟だ」

 「そうでしょう、そうでしょう。これを、かっていただきたいのです」

 「でも、それは出来ない」

 驚きを隠せなかった。まさか、フクロウがセールスの勧誘とは予想だにしなかった。正直なところ、ものの判断でさえいけば、僕はその梟を買っても良いと思った。むしろ、手元に置いておきたいという欲求は、確かに顔を出した。

 けれど、そういうわけには行かない。第一に、フクロウからものを買うということに、どういう意味があり、果たしてどういう危険性や可能性があるのかが知りえない。第二に、これ以上フクロウに関わる機会を伴う要素を、わざわざ増やしたくは無い。そして第三に、今の僕の経済状況に質の良いシルバーを買うほど、余裕は無い。第三の理由が、他の二つよりもいかに大きく、優先されることかは言わずもがなだ。

 「そんな余裕はないんだ」

 僕は正直に言った。ここで見栄をきったところで、なんの意味も持たない。確固たる意思と、それを形成する基と鳴る理由を提示し、もうこの状況を終わりにしてしまいたかった。フクロウの喋り方は、やはり頭の後ろのほうにムズムズとした粉を混ぜ込むように、僕をソワソワさせるからだ。けれど、フクロウは折れない。

 「おかねは、いりません。わたくしは、いりません」

 「そうは言ってもね、貰うというのも気が進まないし」

 「いえ、さしあげるわけには、いきません。かって、いただかないと」

 「だから、余裕は無いんだよ」

 「ですから、おかねは、いりません」

 フクロウが何をしたいのか、理解が出来ない。金はいらないけれど、買わなければならない。どういうことなのだろう。いずれにせよ、僕はスタンスを崩しはしないけれど。

 「ひとこと、いただければ、いいのです」

 「一言」

 「そうです、ただ、ひとこと、かった、と」

 「それで君は何かを手に出来るのかな。僕にはそのシルバーに等しいほどの価値があるとは、思えない」

 常識的に考えて、僕の意見が正しいと思う。ただ「買った」と一言いうだけで、売買契約を終了させるなんて、おかしな話だ。タダより怖いものはないけれど、中途半端な条件だって同じように怖いに決まっている。

 「わたくしは、せいしんてきな、たいかがもらえれば、それでよいのです」

 「精神的対価ね」

 フクロウにしては、複雑な言葉を使う。おそらくは、僕の発した言葉に合わせてのことなのだろう。もとよりフクロウの知的レベルは非常に高いのだから、当然といえば当然かもしれない。

 「つまり、僕が満足して、喜んで、幸せを感じて、その上で君に買ったといえば、君は十分ということなのかな」

 「おっしゃるとおり、です。さすが、わかっていらっしゃる。わたくしたちは、そうして、いきているのです」

 私達? 生きている? 

 「食べて生きているんじゃないの」

 「いいえ、たべません。もちろん、たべるものたちも、います。でも、そういうものたちは、ほんのひとにぎりです」

 「何も、食べないの」

 「たべません。ただ、せいしんてきたいかを、たべているといえば、たべているのかもしれませんが」

 「そうやって生きているのは、どれくらいいるの」

 「せいかくなかずは、わかりませんが。たぶんぜんたいの、きゅうじゅうごぱーせんと、くらいかと」

 やれやれ。僕がこれまで日常で見てきて触れてきたフクロウは、5パーセントだというのか。それで、残りの95パーセントが、今のようにして生きていると。これまでに会ったフクロウは、そんなこと、言わなかったじゃないか。

 「きっと、うまいひとたち、だったんでしょう」

 フクロウは告げる。そう言われてみれば、前のフクロウは梟柄の生地を3メートル、その前のフクロウは梟印のステッカー、その前は梟の形のクッキーを置いていっていた。僕はそれらをフクロウから買ったつもりもないし、貰ったつもりもないのだけれど、フクロウが去った玄関に置いてあった。

 「やっぱり、うまいひとたち」

 フクロウ曰く、買うとか貰うとかの概念を一切出さずに、いかにも日常的な会話の中で、精神的対価を取っていたらしい。そしてその証として、生地やらステッカーやらクッキーを、勝手に置いていく。フクロウ曰く、「うまいひとたち」。

 「わたくしには、それが、いつもできません。だから、こうして、おねがいするのです」

 「そうなんだろうね。大変だろうけど」

 「たいへんです。ことわられることも、しばしば」

 「苦労してるね。営業職だ」

 「はい。と、いうことで」

 結局、僕は受け取ってしまった。今テーブルの上に、シルバーの梟が佇んでいる。フクロウは「ありがとう、ございました。また、あえるひまで」とこれまた丁寧に帰っていった。今回の精神的対価で、どれくらいフクロウは生きるのだろう。

 でも僕は、最後まで「買った」とは言わなかった気がする。とすれば、あのフクロウもこれまでのフクロウ同様、いつの間にか精神的対価を会話から受け取ったということだろうか。考えれば考えるほど、その辺りの曖昧さが、フクロウの正確性や律儀さとうまく噛み合わずに、唸ってしまう。

 ともかく、今回のフクロウも結果としては「うまいひとたち」だったということか。

 僕は思う。フクロウも、悪くないな、喋り方を除けば。

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 文章の難しさを再認識する。書きたいモノと、書けるモノのギャップは、やはり大きい。後天的な理由もあれば、やはり先天的な理由もある。後天的な理由は「経験」と呼ばれ、先天的な理由は「才能」と呼ばれ、その二つを繋ぎ合わせるモノは「努力」と呼ばれたりするけれど。

 僕にはどちらも欠如しているのは分かっている。少しでも、その欠如を埋めていければとも思う。

 書く。     circus

 

2007年6月 3日 (日)

動く空を見上げる

強い風が吹く その中で君の眼を見つける

それだけでは不十分と 分かっていたはずなのに

強い風が吹く その中で君の手握り締める

それだけでも僕の心は 満たされてしまうんだ

「いつも いつでも この場所に留まれたなら 楽なもんだろう

けれど けれども 世の中はそれほど単純なもんじゃない」

そっと芝生に寝転んで ずっと動く空を見上げる

そうだ 僕と君は共に生きて きっと幸せに包まれる

淡い光射す 夢のような時が流れゆく

終わりの無い 僕の心は 弾けては飛んでゆく

「いつか いつかは 頷いて総て許せる日も来るだろう

けれど けれども 感情はそれほど綺麗なだけじゃない」

そっと芝生に寝転んで ずっと動く空を見上げる

そうだ 僕と君は共に生きて きっと幸せに包まれる

「今は 今では 複雑な言葉など要りはしないのだろう

けれど けれども 大切な想いは抱きしめてばかりじゃ 意味が無い」

そっと芝生に寝転んで ずっと動く空を見上げる

そうだ 僕と君は共に生きて きっと幸せに包まれる

共に動く空を見上げる 僕らは幸せを創り出す

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 つぎはぎの部分だけ出来ていた詩。そのイメージを保ちながら、言葉を足していった。結果として、「動く空を見上げる」という前に更新した文章と、コンセプトや感情が共通のものとなった。よって、必然的に動く空を見上げるという言葉を、使った。

 詩から文章が喚起されることもあれば、文章から詩が喚起されることもある。けれどそれは、確かに中枢の部分で繋がりが深くとも、完全に同じということはありえない。文章には文章にしか出来ない、持ち得ない力や意味があり、詩には詩にしか出来ない、持ち得ない力や意味があるはずだ。

 今回の詩は、結局のところやはり歌詞である。メロディーが付随した状態でこそ、完成された状態であるとも言える。けれど歌詞という形態だからといって、果たしてそれが詩としての機能や本質が無いかといえば、それは違うと僕は思う。

 あぁ、空が、見たい。     circus

2007年5月16日 (水)

風船

 落し物は交番に届けなければならない。幼少の頃から、家庭でも学校でも社会でもそう教えられてきた。教えられてきたことが何から何まで真実であるとは限らないし、盲目に信じてはならないと思うけれど、いずれにせよ現代の世界のシステムの中では、多くの場合において正しいとは思う。不思議なのは、僕の落し物が帰ってきた経験は、全くないという点だけだ。

 拾った。丁度手の上に収まるサイズに膨らんだ、風船。材質はどう見ても紙ではないが、いかんせんゴムだとも断定しづらい。表面の弾力の質感が、妙にざらつきつつしっとりしているからだ。どことなく、砂にまみれた軟球のテニスボールを喚起させるけれど、実際のところはそれとも微妙に異なる。ひんやりとした感触が、心地良くも気味が悪い。それにしても、僕はこれを風船と呼んだけれど果たして本当に風船なのかは分からない。なにせ、空気を送り込む送風口がない。しかし、今まで得てきた知識と経験をかき集め、それぞれと照らし合わせてみると風船と言わざるをえない。だからとにかく、僕は風船を拾った。便宜的に。

 交番には届けなかった。なぜなら、落し物ではなかったからだ。けれど僕は確かに拾ったのだ。風船は、今時はもう珍しい、歩道橋の下に捨てられているゴミの中にあった。自転車に乗って食材の買出しに行く道すがら、横目で歩道橋を見ると、風船があった。我ながら、よく気がついたと思う。あるいは、我ながら、なぜこんなものに気がついたのだろうとも思う。

 薄いカーキグレー。そこそこの明度を保った色味をしている。透過性はない。弾力の性質からいくと、やはりたぶん中には空気が詰まっているように思うけれど、それさえも定かではない。非常に軽い。風船だと意識してみたとしても、軽い。楽に持って帰ることが出来た。買い物を途中で引き返してしまったのは痛いけれど、明日に回せばいい。

 それほどまでに風船を大切に思った理由は分からない。ゴミとして捨てられていたのに、だ。難しいことをとやかく考える前に、僕は既に拾ってしまっていた。そして今、目の前に風船は転がっている。

 買い物を切り上げてしまったから、夕飯は質素に済ませるしかない。とりあえず、中華風の冷奴、レタスと新タマネギをポン酢ベースに梅肉としらすを加えたサラダ。薄切りの豚肉を簡易的にしょうが焼きにする。味噌汁はインスタントで済ませる。本意ではないが、仕方がない。それだけを用意し、氷水を持って食卓へ向かう。

 ……ズザッ…………ズズッ……。音がする。僕は振り向く。何かがおかしい。さっきまでの光景と、何処かが異なっている。目を凝らしてみる。そうだ、風船だ。ほんのわずかではあるが、風船が、膨らんでいる。どういうことだろう。空気を送ってなどいないし、まして、そもそもこの風船には送風口なんて見当たらないのだ。気のせいなのだろうか。

 夕飯を済ませる。心持ちがおかしいからか、味があんまり感じられなかった。さっさと後片付けを終える。テレビのスイッチを入れる。あまり面白いプログラムがない。諦めてテレビを消す。よく考えてみれば、そんなことをしているよりも、風船だ。

 先ほどから特に変化はないようだ。今のうちに、直径を計ってみる。15センチメートルジャスト。目の前に転がっている姿を見ると、少々不気味に思えてきたが、それでも捨ててしまおうという気持ちにならない。僕はこの風船に何を求め、何を認めているのだろう。

 そういえば、丸いものを好む傾向にあるかもしれない。ドット柄も好きだし、水玉模様も好きだ。とんがったオブジェをおくよりも、丸みを帯びたオブジェを置きたい。丸の魅力を考察する。滑らかさや柔らかさを持ち、それが母体を彷彿とさせるのかもしれない。不安定に見えて頑なな安定さを保つ、それが羨ましいのかもしれない。もしかしたら、丸に魅力があるのではなく、他の形態に魅力が足りていないのかもしれない。

 終わりのない考察をしていると、再び音がした。……ズズッ…………ズズズッ……。見た。今度こそ、明らかに膨らんでいる。僕は今、その瞬間を目にした。やはりほんのわずかではあるけれど、確かに風船は膨らんだ。試しにサイズを測る。17センチメートル。間違いない。

 そんな日々が続いた。一ヶ月は過ぎただろうか。その間、気がつけば風船は膨らみ、徐々に形が変化してきた。初めは完全に丸型だったわけだけれど、今は幾分細長い。こうして見ている今も、少しだけれど膨らんでいる。ペースは上がっている。完全な丸型ではないくなっても、僕は手放さなかった。この風船の成れの果てを、見てみたくなったからだ。

 やはり形の変化を遂げる日々が続いた。拾った日から半年ほど経過した。風船は、ついに僕の身長と同じくらいの大きさになった。そして形も複雑化している。サボテンのような、トーテムポールのような。弾力の性質も変化してきたように思う。少しばかり、硬くなってきた。表面に関してはともかく、内部の感触が妙に硬い。まるで、何か中に芯を入れたような硬さ。

 風船は存在感を示している。気配、とでも言おうか。一人暮らしの生活には感じられない空気。ペットを飼うと、こういう気分になるのだろうか。僕の横にあるペットと捉えるべきものは、いささか大きすぎるけれど。特に良い気分ではない。でも悪い気分でもない。

 そうしてまた、しばらく時が過ぎた。拾って、一年は経つそんなある日の夜だった。

 風船はガタガタと動き始めた。これまでにない激しい動きだ。まるで木のように成長していた風船が、もの凄いスピードで変化している。グニャグニャ、ではない。バキバキ、という音をたてて。これまで安定していたカーキグレーの色も、急速に変化が始まった。赤、青、緑、オレンジ、ピンク、茶、黒、白…………ある地点で色の変化は止まる。黄みがかったベージュ、どこか慣れ親しんだような色味。その間も、バキバキと不穏な音をたてて形は定まらない。

 僕はどうすることも出来なかった。ただただ、風船を前にして立ち尽くしていた。人間、あまりにも捉えようのない事実が起こると、まじまじと観察し、身動きを忘れるものなのだろうか。僕はとにかく、風船を見つめていた。次第に、風船の形が定まっていく。

 気付いていた。音がパキパキと小さなものになり、形の変化が終盤に近づく頃には、風船が形作っているのが何なのか、僕は気付いていた。ヒトだ。頭があり、腕があり、胴体があり、足があり……目、耳、口、性器、爪、髪……ヒトを形作っている。

 鏡。僕は鏡を見るのがあまり好きではない。別に自分の顔を見ていたって面白くもなんともないし、スタイルだってガッカリするだけだ。だから、家には鏡がほとんどない。洗面所を除いて。全身鏡など、もってのほかだ。あれはデパートメントストアで見ればいい。

 立ち尽くす僕の目の前に、僕が立っていた。クローン。風船は、完全にヒトであり、僕になっていた。肌の色―道理で慣れ親しんだ色味に見えたはずだ―、ホクロの位置、皺の深さ、毛穴の大きさ……こと総てが合致していた。なるほど、僕は頷く。

 「どうも」

 彼―便宜的に彼と呼ぶほかはないだろう―は声を発した。聴きなれた音質。

 「どうも」

 僕は答える。どことなく体の中心あたりが、ムズムズする。胸の底から、息が締め出される感覚もする。内臓が収縮していくイメージが沸きあがる。全身の力が抜ける。決して苦しくはない。むしろ、どことなく落ち着いた安らぎすら覚える。徐々に意識がぼんやりとしてくる。はっきりしているけれど、ぼんやりと。カメラのピントが合わないみたいに。

 「じゃあ」

 彼が話しかけている。返事をしなければ、と思う。しかし、口が思うように開かない。皮膚の神経が巧く働かない。いつの間にか、僕は彼を見上げている。

 「うん」

 締め出すように、それだけを呟く。視界も狭まってきた。身動きも取れない。

 微かに彼の眼の中に映る、モノを見つける。あぁ、風船だ。あの風船だ。軟球のテニスボール、カーキグレー。

 否、彼は彼ではない、僕だ。新しい僕は、風船を持ち上げる。体が随分と軽くなった。身を任せる。

 僕は風船を片手に自転車に乗る。歩道橋の下へたどり着く。積み重なるゴミの上へ、そっと置く。

 僕は遠ざかる。

 僕は、新たな僕を待ち続ける。

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 すごく時間がかかった。最後のあたりは、特に。自分でも段々、どういう文章を書いているのか分からなくなったほどだ。でも、きちんと仕上がったと思う。

 この文章も、もっと根を詰めて書くと、随分と長いものになると思う。こんなに短くまとめてしまったのは、もしかしたら不適格かもしれない。

 この文章に、教訓などない。というより、僕の書く文章に教訓などない。けれど、そこから何かを感じてもらえることがあればいいと思い、書く。     circus

2007年5月 5日 (土)

やれやれ

 溜め息を吐く事で、何かが解決してくれるなら、いくらでも吐こうと思う。

 でも、世の中はそんなもんじゃあ、ない。

 溜め息なんて吐いたところで、一つとして解決に向かう光が見えるわけではないし、むしろそれは無意味な闇を引き出してしまうに過ぎない。

 分かっていても僕は同じ事を繰り返してしまう。溜め息を吐いてしまう。

 身を殺がれる。愚かさや拙さ、未熟さや無力さに。これまでとは違う、それぞれの重みに。身を、殺がれる。

 そしてその度に、溜め息を吐いてしまう。格好悪い音で。

 格好良い音の溜め息を吐けるようになりたい。

 つまりは、愚かさや拙さ、未熟さや無力さによるものでない、溜め息。

 笑顔や喜び、優しさや幸せから生まれる、溜め息。

 ―やれやれ―

 何年後だろう、何十年後だろう。

 きっと、いつか。

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 自らの溜め息が、あまりにも情けないので出てきた文章。

 入り口で躓く僕は、もがいている。果たして入り口が正しかったのか、そこまで考えてしまう。

 でも、僕の描く世界には、今のこの状態は不可欠で。

 独りでもがくのは、いささか厳しい。

 厳しい。     circus

 

2007年4月18日 (水)

呟く

 ―どこか知らない遠くへ行けたら―、そんなことを考えていた。同時に僕には帰る場所など無いと思っていた。さらに言えば、僕を待ち受け入れてくれる人もいないと感じていた。それはこれまでの場面ではいつでも「真」だったし、逆に言えば僕の捉え方が間違っていたことは無かった。

 僕は、独りだった。

 純粋に独りだという意味ではないかもしれない。僕には普通に家族もいるし、親戚もいるし、同僚もいるし、僅かだけれど友達もいた。でも僕がいう独りというのはつまり、いわば数量の問題などではなく、もっとセンシティブな問題で、ずっとメンタリティの問題だ。

 壁を作っていた。一定以上に触れ合うこともなければ、馴れ合うこともないように。もちろん、幾度の恋愛はしたけれど、それでも僕はある意味での壁を崩さなかった。一般的に見れば、なんて性格の悪い人間だろうと思う。しかし、確かにそれが僕であることはどの角度から考えても事実だった。

 遠くへ行こうとしても、現実としてそう上手くは行かないものだった。この世の中、金がなければ生きていくことは出来ないし、その金は空から勝手に降ってきたりしないし、まして土から生えて来ることもない。働いていなければ、この生命を維持することは出来ないのだ。僕は延々と長生きしたいとは全く思っていなかったけれど、早く死にたいとも思わなかった。きっと、何か希望を持っていたのだと思う。

 その希望が、形になったのだろうか。

 ある人に出会った。かつての同僚といっていいだろう。共に時間を共有し、共に志を抱きあったこともあったと思う。当時の僕は、その人を珍しく気に入っていた。当然だけれど、壁は残したままだったが。でもなんのことはない、いつも通りの人間関係を築いたに過ぎない。改めて出会ったのは、そういう人だった。

 他愛もない会話を交わした。内容だけ取ってみれば、表現は適切だ。端から見れば本当に大したことのないものだっただろう。「お元気ですか」、「もちろんです」。そういうレベルだ。

 でも、僕にとっては。

 会話の内容ではなくて、その全体の総じた空気がすごく特殊だった。彼女はずっと以前と変わらぬ、否、以前よりもさらに心地良い笑顔を浮かべていたし、何よりも言葉の現れ方が柔らかく優しかった。これまでに感じたことのない優しさだった。彼女の何がそうさせているのかは分からない。それでも僕の心は震えた。

 彼女とささやかに触れ合った瞬間に、僕は感じた。これまでの僕は、大きな思い違いをしていたことに気付かされた。それは僕が壁を作っているかどうかなんて、関係ない。壁さえも超越した感情だった。

 「僕は独りで、帰る場所も、受け入れてくれる人もいないのではなかったのだ。僕はこれまで、自ら独りを演出し、帰る場所を拒み、受け入れてくれる人を遠ざけていたのだ」

 壁を作っているなどと考えていたのは、その演出や拒絶、あるいは疎遠を正当化しようとした結果に過ぎないのだ。なんて愚かなことだろう。なんて浅はかなことだろう。

 僕は遠くへ行く必要なんて、ないのだ。

 声にならない声で、想いを超えた想いを、僕はここで呟く。

 願わくば、届けばいいと思う。願わくば、今度は直接届けに会いに行こうと思う。

 でも今はとりあえず、ここで呟く。

 ありがとう。

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 恐ろしいくらいに纏まりのない文章だ。ここ最近の中でも、抜群に文章としては不出来かもしれない。でも。

 よく考えてみれば、世界の多くはこれくらい纏まりに欠けたものなのではないだろうか。だから、思いついたままに文章とした。

 こういう文章のような出来事は、現実にも起こりうる。ふとした瞬間、端から見ればどうでもいいような時に、胸を震わす何かが起こり、感情を揺さぶり、思考を変化させる。

 なんだか不思議な心持ちのする文章になってしまった。そういうこともある。     circus

2007年4月15日 (日)

日常

 天気予報は一日を通して雨を僕らに呼びかけていたけれど、結果としてはあくまで予報でしかなく、僕らにはほのかに暖かくいかにも春を喚起させる陽射しが、淀むことなく降り注いでいる。もし天気予報がもっと厳粛なもので、あるいは社会権利的なものだとしたら、この予報と現実のあまりの違いは罰せられるところかもしれない。でも、そんなことはどうでもいいことだろう。今、この瞬間が気持ち良いということを僕らは素直に享受すればいいのだ。難しいことは何一つとしてない。

 僕らは歩く。いつもの通りはいつの間にか、姿を少しずつ変える。昔は本当にしゃれっ気もなにもなく、でもどこか雰囲気が素敵な大通りで。今が果たしてそういう雰囲気を持たなくなったとは言わないけれど、少なくともより現代的な空気を纏わせるようになっている。考えようによっては、昔は昔なりの社会や世界の空気を纏っていて、それが単に現代の変化によって流動的に変化しているだけなのかもしれない。良いことなのかは判断は難しい。僕は今でもこの通りが、なんだかんだで好きだけれど。

 コンビニエンスストアもある。その隣にちょっとボロボロになった喫茶店もある。すごくナチュラルで爽やかな花屋もある。その向かいにはずば抜けてセンスの優れた雑貨屋もある。フレッシュな香りとまろやかな香りを常に吐き出すパスタ店もある。その向こうには変わらぬ味をずっと提供してくれている和菓子屋もある。鮮やかな緑を残すゆるやかな公園もある。裏側には風情に溢れた坂道もある。車がほとんど通らずに静かな交差点もある。先には急に輝きの増した信号機もある。

 この通りにはいろいろなものがひしめき合っている。それでもそれぞれの間隔が適切で、息が詰まることなく喜びの空間を創り出している。ある人にとっては退屈な光景かもしれない。無論、僕にとってはどこのどんな通りよりも馴染む場所なのだけれど。新宿にも渋谷にも、横浜にも二子玉川にも、浅草にも麻布にもこんな通りはないのだ。何処にでもありそうで、何処にもない通り。

 「優しい場所だね」

 君は駆け出す。僕はその後ろ姿にどうしようもない愛しさを感じる。とても無邪気に正直な君に、自然と頬が綻ぶ。僕は二重の意味で嬉しい。まずは君がこの通りを嘘偽り無く気に入ってくれて、褒めてくれたということ。そしてもう一つは、何よりも君が笑っていてくれているということだ。前者の嬉しさを1とすると、後者の嬉しさが10や20、それ以上なのは当然なことだ。

 「僕もそう思う」

 ゆっくりと歩を進めて君を追う。急ぐ必要なんてない。僕らは同じ時間で生きている。決して互いに早すぎることも遅すぎることも無い時間。歩幅やペースが異なりはすれども、僕らは同じ時間の枠組みで生きている。そしてそれを僕らは分かっている。時速一時間。なんてことないことかもしれない。でも、僕らにしてみればそれを理解して生きることによって、絶対なる安心感と甘えのない信頼を持ち合っている。

 この通りは季節がはっきりとしている。今は春だ。春にはそこらの木に桜が咲き散るし、陽射しを妨げるような無駄なコンクリートは存在しない。夏には満足できるほどの暑さも襲えば、回避するための日陰は充実している。秋には桜の部分とはまた別の区画で優雅な紅葉を楽しめるし、時には落ち葉で焼き芋を焼いたりもする。冬にはそこそこ雪が降り積もり、肌をつんざく確かな鋭さを空気は保っている。

 「でもまだ、こんなもんじゃないんだ」

 僕はこれからも君と、この通りを歩きたいと思う。アイスを片手に汗をかくのもいいだろう。木の葉を踏みしめ写真を撮るものいいだろう。互いに手を暖め合いイチゴドロップを食べるのもいいだろう。そしてまた、こうして駆ける君を僕が見つめる。ずっと、そうあればいいと思う。

 「こんなもんじゃないのが、日常になるの」

 君は何気なく僕に促す。なんて素敵な言葉だろうと感嘆に暮れる。君の言葉の一つ一つが、僕の心には強く刻まれる。複雑な表現など全くしない。どれもが、真っ直ぐな言葉達だ。今も既に、新しく僕の心には君の言葉のスペースが誕生している。

 忘れ行くものが人間だと言うセリフを小説で読んだ。脳科学で見れば、人間の使える記憶のキャパシティは微々たるもので、日に日に減少し、つまりは一つを残すためにはまた何かを一つ失くさなければならないらしい。理論的にはそうかもしれない。僕も随分と多くのことを失くしてきた気がする。間違ってはいないのだろう。

 ならば僕は、失くしたくない記憶を失くさずにいられるのだろうか。君と買ったヴィッテルの重み。君と飲んだコーヒーの酸味。君と見た百合の色。君と語り合った革小物の刻印。君と探ったトマトソースの甘み。君と食べた豆大福の塩加減。君と肩を並べた古ぼけたベンチ。君と後ろ向きに遊んだアスファルト。君と寝転がろうとした広さ。君と指差した赤と緑。

 たぶん、忘れてしまうこともあるのだろう。失くしたくない記憶ほど、失くした時に気がつかないものだ。僕らはその分、また新しく記憶を創っているのだ、きっと。そう考えると「失くさずにいられるのだろうか」という漠然とした不安も、にじり寄ってくる恐れも、全部氷解してくれる。

 でも、今日の言葉は絶対に失くさないようにしたいと思う。その記憶を日常にしていきたいのだ。こんなもんじゃないのを日常にしてみたいのだ。

 「そろそろ、帰ろう」

 僕は意を決して言う。この時間がずっと続けばいいとは思う。このまま留まり続けることも出来ると思う。でも、そんな必要はないのだ。同じ時間を生きていてゆっくりと君に追いついたように、僕らはこれからもっと多くの時をこの通りで過ごすことが出来るし、そうすべきだからだ。焦らなくてもいい。

 もう陽射しは弱くなり、太陽は隠れつつある。

 「春だけど、まだ、寒いこともあるね」

 そっと僕の左手を握る。ふっとぬくもりが僕全体に染み渡る。ぎゅっと胸が締め付けられる。

 「確かに」

 左手に少しだけ力を込める。微かにでも想いが伝わるように。

 「うん」

 僕は、君が、好きだ。

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 何を書きたいと思ったのか、自分でもよく分からない。でもこの文章の空気はすごく良いと自分でも思う。

 もしかしたら、こんな風な日常を僕は望んでいるのかもしれない。たぶん、そうだと思う。今がそうじゃないとは、限らないけれど。

 以前僕はあとがきに、「書いている時の心理状況がそのまま文章になることはない。多少の影響はあるけれど」みたいなことを書いたように思うけれど、今回の文章はいわゆるその影響がもの凄く強く出ているように思う。

 通りのイメージは実際にある通りを思い浮かべながら書いた。君のイメージも実際に存在する人を思い浮かべながら書いた。

 とても、幸せな文章だと思う。     circus

2007年4月 8日 (日)

シュガーポット

簡単なことだろう 僕はそこへ行くよ 君の隣 安らげる場所

イヤになってしまう日も 二人取り巻く空気に 総てを委ねてしまえるんだ

身勝手な感情を 胸に燃やしているけれど

誤魔化しなんて利かない…… 確かに心は彩られているんだ

このまま 何処まで 共に生きてゆける?

理由はいらない 赴くままに

もっと もっと ずっと ずっと 君といたい

もっと もっと ぎゅっと想いを 抱きしめたい

格好良いセリフも 気の利いた理想も 分かり合えば必要ないかもなぁ

暖かいイメージを 繋げてはストーリーを

紡いでは纏めて…… あるいは未来を創ればいいんだ

気付けば いつでも 並んでいられる?

幸せ 希望に 心震わせる

そっと そっと ふっと ふっと 微笑み交わす

そっと そっと 手を取って歩いていたい

答えにならないものを 考え続けているんだ

きっと君と同じ…… 世界を想い描いているんだ

このまま 何処まで 共に生きてゆける

理由はいらない 二人でいい

もっと もっと ずっと ずっと 君といたい

もっと もっと ぎゅっと想いを 抱きしめたい

もっと もっと ずっと ずっと 共にいたい

もっと もっと ぎゅっと想いを 共に抱いて……

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 僕の書く詩には2種類ある。一つは純粋にいわゆる詩であり、もう一つは歌詞だ。想像と創造の空間においては、思いのほか歌詞を書いていることが多い。例えば、今回の『シュガーポット』。

 以前に書いた、『つながり』や『8』もそうだし、『短篇集』も『足跡』もそうだ。ということは、僕はこの空間にはほとんど純粋な詩の方は、書いていないことになる。唯一『円』だけが、そういう存在であると言っていい。

 純粋な詩は好きだ。散文詩であろうが、なんであろうが。ただ、この空間ではあまり更新することがないというだけで。僕は案外、日常的に詩的に文章を捉えてしまうタイプだ。だから逆に言えば、僕の書く文章そのものに、もはや詩のような趣を持たせたいと想いながら書いているような気もする。おそらく、これから先、歌詞でない詩を更新することもあるだろう。

 歌詞と詩はやはり異なる。歌詞は曲と共に存在するものであるから、それが音楽として意味があるとしたら、同じ文章の繰り返しが生じる。世間ではもしかしたら、手抜きで繰り返すと思う人もいるのかもしれない。あるいは、巷で溢れかえる歌詞の多くは―とりわけアイドルは―それもあるだろう。……しかしながら、僕は違う。一度として、手を抜くために繰り返しを用いたことはない。

 そこに繰り返す意味があり、繰り返すよさがあるから、繰り返す。今回もそうだ。

 これだけ抽象的な、その上ストレートに漠然とした言葉ばかりで歌詞を書くのは久しぶりかもしれない。以前、その抽象性から、「もっと変わったことを書けばいいのに」と言われたこともあるけれど、それはいかがなものなのだろう。

 もちろん具体的な何かを出しつつ、それを上手く抽象的な表現として結びつけることは可能だ。それによって、「あぁ、なんて素晴らしい歌詞なのだろう」と想うことだって、ある。ストレートに漠然とした言葉を控えて、小難しくあるいは風情溢れた表現に感動することだって、ある。

 ならば何故これだけストレートで漠然とした抽象的な歌詞を書くのか、と問われれば、「それが好きだからだ」としか言うことは出来ない。出来る限り単純な言葉で、出来る限り誰もが理解できる繋がりで、歌詞を書く。いいじゃないか、と思う。当然、曲との関係性は重要だけれど。

 それはともかく、この『シュガーポット』はつい今しがた書き上げたところだ。メロディーと共に浮かび上がった言葉を多く使った。とても優しく、笑顔が溢れる暖かいメロディーだから、それを崩さないような歌詞になったと思う。

 これは愛の歌だろうか? 分からない。ただ感じられることは、他ならぬ僕自身の大切な想いは含まれているのだろうということだ。現実における「君」が誰なのかは別として。「もっと、ずっと」という単純な想い。

 『シュガーポット』というタイトルは非常に悩んだ。はじめは『未来創造』というタイトルだったし、そのまま『もっと、ずっと』というタイトルを経由したりもした。けれど、様々な隠れた意味も含めて、『シュガーポット』に落ち着いた。隠れた意味に関しては、最近僕自身が気がついた事実が基になっているけれど、それはどうでもいい。

 さぁ、コーヒーを準備しよう。砂糖は使わないけれど、大切な『シュガーポット』と共に。     circus

2007年4月 5日 (木)

サーカス

 彩り。イロドリ。いろどり。

 歓び。ヨロコビ。よろこび。

 微笑み。ホホエミ。ほほえみ。

 喜び。ヨロコビ。よろこび。

 輝き。カガヤキ。かがやき。

 綻び。ホコロビ。ほころび。

 煌き。キラメキ。きらめき。

 囁き。ササヤキ。ささやき。

 吹き抜ける風。揺れ動く舞台。響き渡る音。沸き起こる感動。

 打ち上がる波。包み込む丸盆。澄み渡る夢。受け入れる幸福。

 あらゆるもの総てを。

 フキヌケルカゼ。ユレウゴクブタイ。ヒビキワタルオト。ワキオコルカンドウ。

 ウチアガルナミ。ツツミコムマルボン。スミワタルユメ。ウケイレルシアワセ。

 あらゆる至福総てを。

 アラユルシフクスベテヲ。

 一つの空間に創る。

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 簡単に言うと、そういうわけで僕はcircusと名乗っている。

 言葉にすると、そういうわけで僕はcircusと名乗っている。     circus

 

2007年3月31日 (土)

円。

始まり。終わり。

回るのならば、どちらだって同じこと。

円。

無限。有限。

一方が一方をそれぞれ内包し、自然に独立する。

円。

点。線。

構築物は思想的には存在するが見えない。現実的には存在せずとも見える。

円。

上下。左右。

定義によって成り立ち、普遍の中で崩壊する。

円。

純粋。歪み。

互いが互いの意味を実体化する。それは観念的に。

円。

束縛。自由。

互いが互いの意味を実体化する。それは感覚的に。

円。

偶然。必然。

抗いようのないこと、受け入れるべきこと。

円。

シミリ。メタファー。

そこには総てが無い。そこには総てが在る。

円。

欲望。衝動。

はちきれんばかりの膨張、あるいはある種の象徴。

円。

記憶。経験。

現在は現在を規定しない。過去も現在を規定しない。未来が現在を規定する。

円。

季節。現象。

言葉に出来たなら、素晴らしい。たとえ出来なくとも、素晴らしい。

円。

出口。入口。

右手で宙に大きな円を描く。左手でその先を掴み取る。

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 これは、僕が数年前に書いた、ごく控えめに言ってとても大切な詩だ。今の僕の思考であったり、生き方を大きく左右した詩だ。自分で書いておいておかしい話と、他者は思うかもしれないけれど。

 物事は巡り巡る。その中で、僕自身もいろんな角度を巡り巡る。迷うこともある、惑うことも多い、さらには辛いことも重なるし、時に道も見失う。そんな時、僕はこの詩を思い出し、この詩を実際に試みる。

 右手で宙に大きな円を描く。左手でその先を掴み取る。それを、試みる。

 すると迷いが晴れる。惑いが振り切れる。辛さを乗り越え、道をまた探すことが出来る。

 そんな特殊な意味が、この詩にはある。

 誰に何が伝わるかは分からないけれど、誰かに何かが伝われば良いと思って、ここに書いた。

 そしてまた、不思議な円が繋がれば良いと想う。     circus

2007年3月28日 (水)

僕は今日もページをめくる。

 数日前、会話の中でこんな言葉が出てきた。

 「同じ本を何度も読み返す。でも、読むたびに新しさがあって、考えることがある。もちろん、新しい本だって読むけれど。」

 趣旨を要約すると、そういうことを。この言葉を聞いて、僕は僕の場合を考えた。僕はどうだろう。

 考えるまでもなく、僕も同じ本を何度も読み返す。安部公房の『壁』はたぶん20回以上は読んでいるし、『第四間氷期』も同様だ。ほか短編も長編も安部公房はかなり読み返す。そして村上春樹、あの呆れるほどに長い『ねじまき鳥クロニクル』を何度読んだだろう、『ダンス・ダンス・ダンス』もそうだ。無論、他の短編も長編も。他の本においても、読み返す機会は多い。……とりわけフランツ・カフカ。

 大学一年生くらいのころだろうか、フランツ・カフカについて少し考えていたことがあった。もちろん僕はそういう研究家ではないし、あくまで興味の範囲内での話だ。その中で、カフカの翻訳をしている方のこのサイトにおいて、カフカの言葉が載っていた。

 ぼくは、自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。もし、ぼくらの読む本が、頭をガツンと一撃してぼくらを目覚めさせてくれないなら、いったい何のためにぼくらは本を読むのか? きみが言うように、ぼくらを幸福にするためか? やれやれ、本なんかなくたってぼくらは同じように幸福でいられるだろうし、ぼくらを幸福にするような本なら、必要とあれば自分で書けるだろう。いいかい、必要な本とは、ぼくらをこのうえなく苦しめ痛めつける不幸のように、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。

 なるほど、と思った。これは限りなく、僕がこれまで思っていたことに合致する考え方だ、と。きっとだからこそ、僕は何のきっかけからかカフカの本を手に取り、あの段落も落ち着かない文章を読み進め、さらにはもう少しカフカに触れようとしたのだろうと思う。……それはともかくとして、この言葉だ。

 表現はどうあれ、つまるとこは「本とは、その読み手に対して、あらがいようのない強い衝撃を与えるべきなのだ」ということだ。なんて誠実な考え方だろう。本を大切にしているのだろう。

 僕のこれまでの経験上、本を読んだ際に「あー、まぁアレかなぁ。面白いっちゃ面白かったのかなぁ、なんとなく。」みたいな釈然としない心を抱き、自分の中になんのとっかかりもなく流れていった本は、後に読み返すことはない。逆に言えば、たとえどれだけある種の退屈さや苦痛を伴い、そこに笑顔が溢れていなくとも、自分の中に引っかかる本は、その時に読み返したいと感じなくとも、結局は後に読み返すことになる。

 それは僕が思うに、「自分の中に残る引っかかり」というのは、「これまでの自分になかった価値観や考え方」であったり、「理解が出来ないような理屈や経験則」であったりするのかもしれない。一度それを読んだだけでは、吸収も消化も、ともすれば飲み込むことすら出来ていないこと、ではないか。カフカのいう作用とは、それらの総合した形なのではないだろうか。

 僕らは自分の範囲外の出来事に遭遇すると、衝撃をうける。それを感動と呼ぶこともあるだろう。僕らは様々な成長と変化を遂げる。時には留まることもある、ただし留まることを通じて、心と意志をより強くしている。

 そして僕らは、一つの本を何度も読み返す。何度読んでも受けるだけの衝撃が、その本には詰まっているということだ。衝撃を与える役割として、僕らの前に意味を持ち存在しうる。そういう本に出会えるのは、どれだけ素晴らしいことか。

 たぶん、このカフカや僕の感じていることは、多くの人にとっても間違いではないだろうし、いくらかの人にとっては理解もしてもらえるだろうし、また僅かな人にとっては同じ感覚を抱いているのだろう。今回、僕の周りに少なくともそう感じる者がいたように。

 ところで僕は、その先を考えた。読み返す、読み返す、読み返す。その先で、「これまで擦り切れるほどに読み返したけれど、もう今は読み返すことが無い」という本は、その人にとってそういう意味を持ち、どういう位置にいるのだろうか、と。少なからず、あるのだ。読み返しを重ねたことによって、今はもう読み返すことはなくなる、ということが。僕の場合、まだ生きている年数が少ないから、安部公房や村上春樹やカフカにそう感じることはない。ただ、「すごく好きだし、何度も読み返したけれど、もう読み返さないかもしれない」という本は、あるのだ。指折り数えるほどの回数では、除くべきかもしれないけれど。

 前に述べたカフカや僕の捉え方から言えば、きっとその本は既に僕に対して、衝撃を与える要素を含まない本になったのだ、と言える。あるいは、「僕はその本から、僕に与えられるべき衝撃を総て受け取った」とも言える。どちらにせよ、その本はこれまでののように、僕には作用しなくなっているということなのだろう。

 ならば、その本は、僕にとって何たるものなのか。

 僕が思ったのは、「ようやく、それは僕にとっての<本>になるのではないか」ということだ。それも、すごく個人的な<本>に。ようやく、と書いたが「それだけの意味はある過程を経て」という意味だ。

 言い方は悪いけれど、自分自身になんの衝撃も与えず、作用する役割を持たない本は、本ではないように思う。それは結局、その人にとって「紙とインクの塊である本」に過ぎないのかもしれない、と。これは本を創る側の人間をすごく踏みにじってしまう考えだと自分でも感じているけれど、本に対する考えを突き詰めれば突き詰めるほど、到達してしまうのだ。僕だって創る側の人間なのだから、自分でこんな考えを述べて、心苦しい部分もある。

 でも、現実にそうなのだ。僕の本棚の中には、悲しくも「ただの紙とインクの塊」になってしまった本が幾つもある。そして同じ空間に、個人的な<本>になったものもある。そして個人的な<本>になるべき本がたくさんある。誰しも、同じことだ。

 個人的な<本>になった時、それはその本が僕らに対するスタンスが安定し確立した状態になると同時に、僕らから見てもその本に対するスタンスが確立した状態になる。つまりは、その本に対する評価や分析、切実な想いが、揺るがないものになるということだ。

 他人から「この本はどう感じるか」と聞かれたり、あるいは人に「この本をすすめよう」と想う際に、明確に自分なりの形として揺るがない想いを、確実に表現できるということだ。

 モチロン、人にすすめたりするのに、必ずそういう状態である必要は全く無い。むしろ、そういう状態で無いほうが、すすめる意味はあるのかもしれない。その辺は、まだよく分からない。すすめた本による、人の変化を僕はまだ実感したことがないからだと思う。

 ただ、個人的な<本>になりえた本は、僕の中に強く存在する。一体化するといっても良い。他人から見て、何かそのような節があるかどうかは、問題ではなく。なんだろう、立花隆に言わせれば「僕の血となり、骨となり、肉となった本」ということになるのだろうか。

 個人的な<本>になりうるまで、読み返している最中の本が血や肉にならないわけではない。それは初めに言っていたとおりだ。むしろその過程こそが重要で意味のあることなわけであり、あくまで結果として個人的な<本>という捉え方が生まれているに過ぎない。だから、僕らは何度も本を読み返す。そしてその度に個人的な<本>に近づかせていく。

 僕はこれから先、どれだけの本を個人的な<本>にしていけるだろう。もしくは近づかせていけるだろう。分からない。キリがないのだ、とも思う。でも、本というものはそうあるべきなのだとも思う。

 そんないろんなことを思いながら、僕は今日もページをめくる。

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 この文章を書いた後に、また考えてみると、カフカの言葉と僕の言葉は、どうやら視点が逆に置かれているらしいということに気付く。それはたぶん、カフカが作家であり、僕は読み手であるからだろう。

 カフカは読むという言葉を使っているものの、全体のニュアンスを見ると「本はこうあるべきだ」というのを「こう書き、書かれるものだ」という方面を中心としてえぐっている。僕は「本はこうあるべきだ」というのを「こう読み、読まれるものだ」という方面を中心としてえぐる。でも結局は、「本はこうあるべきだ」というのを語っているわけだけれど。

 この文章において考えている事柄の中に、実のところまた別に掘り下げて考えるべき事柄がある。それは選択ということだ。僕らは「自分から本を選び出会っていくのか」それとも「本とは自然と必然的に選び出会って繋がるのか」ということだ。ただしそれは、本との関わり合いのみならず、世の中の多くの関わり合いにおける出会いに関する事柄でもあり、また長くなるであろうから別の機会に書くことにする。

 それにしても読みづらい文章だ。書いた本人が読みづらいのだから、周りはなお更だろうか。

 その上、その先を考えるといった部分の個人的な<本>の部分は、考察が足りない。結局、その個人的な<本>とはどういう存在で、いかなるものか、ということを言及していない。このテーマもやはり、いずれ別に書かなければならない。

 今回書いた文章は、多くの考えることを含む単なるアウトラインであり、序章でもあり、最も的確に言えるなら習作である気がしてくる。

 僕以外の人間には、一体、どう捉えられるのだろう。     circus

2007年3月24日 (土)

動く空を見上げる。

 「何をしているの?」

 君は僕に語りかける。僕は君の声を受け入れる。周りには多くのざわめきが存在し、間違っても静寂に包まれているわけではない。でも僕らは、確かに互いの世界の中に身を置き、そこはどんな静寂よりも静寂であり、またある意味ではどんなざわめきよりもざわめいている。そして何処のどんな音より、誰のどんな声よりも、僕は君の声を明確に取り入れ、君は僕の声に耳を傾けている。桜の揺らめく音と、子どもの嬉々とした歓びだけは微かに僕らの世界にシャボン玉のように浮いているけれど、それはただ単に美しく、僕らの周りに漂っている。

 「空を、見ているんだ」

 空気の流れをなるべく淀ませることなく、けれどそれが言葉として迷うことなく機能するように、僕は呟く。最低限に削り切った、最大限の事実を。もちろん、いつだってそんな風に総てを集約して呟くわけじゃあ、ない。空を見ているときだけだ。空を見ているときは、それでいい。君だってそれをきっと理解しているし、だからこそ君も同様に語りかける。

 空は青く澄み切っている部分もあれば、これでもかというほどに見事な白い雲を身につけている部分もあり、ともすれば今にも冷たい水を僕らに降り掛けそうな灰色の部分もある。僕が今見上げている空は、そういう空だ。その全体を見渡す位置に視線を固定し、出来うる限りのまばたきを省略する。目は多少なり乾くけれど、自然は僕を壊したりはしない。僕が自然をあざ笑ったりしないように。

 「そうすることで、あなたは何かを得るのね?」

 君は囁く。

 「あるいは」

 僕は答える。

 大きくも小さくもない鳥が、優雅に舞っている。でも羽ばたく音はない。僕らの世界には、その羽ばたきの影だけが溢れている。決して、空を妨げることはない。いわばその影は、上等なフランスパンにおける塩のごとく、堅実なワインに含まれる輝きのごとく、律儀なチーズに開いている穴のごとく、それは空の要素であると同時に、それは空の成分であり、時に見え隠れするものだ。僕は影がいようと、視線を動かすことはしない。

 雲は瞬間ごとに姿を変える。理論的に全く同じ雲が出来るはずがないように、現実的にも全く同じ雲が見えることはない。雲の欠片は瞬く間に分散あるいは集結し、雲の塊は勝るとも劣らぬ速さで自らの位置を変える。僕らの持つ眼はそれほど優秀なものではないのかもしれないけれど、それくらいは分かる。感覚的にも、感情的にも。

 空を見ることに必要なものは、いくつかある。それなりに現状を維持できている身体と、相応に付き添う精神、寝転がるための場所、そして世界を創る意志。それさえあれば、僕らは空を見る事が出来る。難しいことは何もない。ただその場に寝転がって、精神の多くを空に向け、それ以上に身体を空に向ければ良い。

 けれど、それで十分かと問われれば、僕はそうは思わない。空を見る前には十分な栄養補給が必要だ。新鮮な野菜を中心とした誠実に作られたサンドウィッチや、罪深いほどに甘みと酸味を保持したフルーツ、正しい乾燥と焙煎を通過し誠意を込めて淹れられたブラックコーヒーや、呆れるほどに香りとキレを高めたアールグレイ。また、空を見る場所は整っているほうが当然、良い。無邪気に暖かな陽射しが少し、無頓着にそよぐ風が少し、無期限に柔らかな土が少し、そして無意識に心地良い芝生が少し。

 精神と意志に関しては、確固たる自己の存在を信じていれば良いと思うけれど、自己の存在を信じてくれる愛する者がいると、さらに素晴らしい。その際にはもちろん、自分のその愛する者の自己の存在も信じていなければならない。

 「君も、見てみればいい」

 ふと、僕の声は虚しく響き渡る。呟きは相変わらず最低限で最大限であるには違いなくとも、僕の声は宙を彷徨う。いつしか、世界から君は抜け出している気配がする、もしくは世界に君の気配がしない。途轍もない寂しさを感じる。僕はその波のように迫りくる寂しさに、あらがうことは出来ない。今すぐ、空を見ることをやめ、君を探しに僕も世界を抜けださなければならない。しかしそれは、正しい思考なのだろうか。

 「落ち着くんだ」

 胸、頭、全身に言い聞かせる。きっと僕は何かを忘れている。それも大事な何かを。焦りに身を任せて、世界を抜け出すことは賢い選択ではない。そうだ。まだ、君が世界から抜け出したと決まったわけではないのだ。僕の声は宙を彷徨っているけれど、それが総てを物語るわけではないのだ。たぶん、おそらく。

 僕は変わらず空を見る。空も変わらず動いている。僕は思う。君が世界にいなくとも、空は変わらず動くのだろう。そして、僕はそれを見ることが出来るのだろう。今こうして、見上げているように。でも、僕は決して満たされることがない。

 空を見ることに何かがあるのだ、と僕は思っていた。それで何かが得られるのだと感じていた。でもそれは。

 「大きな勘違いだ」

 涙が滲み出るくらいに、目を思い切り瞑る。爪の痕が刻まれるくらいに、手を強く握り締める。血液独特の鉄の味がするまで、唇を噛み締める。僕は一体、何をしているのだろう。いや、何をしていたのだろう。目、手、口、それぞれには力が込められるのに、全身に力が入らない。打ちひしがれている。今となっては、桜が揺らめく音も、子どもの嬉々とした歓びも、研ぎ澄まされた刃物のごとく、僕に突き刺さる。それらはもはや、ざわめきにも静寂にも溶け込まない。シャボン玉は、鉛色に彩る。

 「絶望している」

 強がる意味も余裕もない。僕は空を憎む。空が僕をたぶらかしたのだ。空が僕から君を奪ったのだ。空が、空を見るための世界を、壊したのだ。それなら僕はどうしたらいい? それなら、僕は、どうしたらいいんだ?

 僕は決意を固める。たとえ今ここで腕が引きちぎれ、足が切り刻まれ、頭を打ち砕かれようとも、僕は君を探す。落ち着いて考えることによって得た結論は、それしかなかった。僕は、世界を抜け出さなければならない。君を、探しに行かなければならない。空は、味方してくれない。

 「オーライ」

 僕はゆっくりと身を起こす。現実の世界に意識を戻す。思い切り瞑った目を、少しずつ開ける。

 鋭い光が刺す。暗闇を拭い去る。僕は君を求める。

 「空を、見ているのよ」

 君が囁く。僕は自分の目から、空から降る水に似たものが流れていることに気付く。僕は今空を見ていないけれど、きっと僕を伝っているこの水は、さっきまで空を創っていた灰色の部分に違いない。きっと君が見ている空には灰色はないのだ。灰色は、ないのだ。僕が見ていた空よりも、もっと完璧な空を見ているのだ。露ほどの濁りもない、完璧な空。

 「あなたも、見てみればいい」

 声は何処のどんな音よりも、誰のどんな声よりも、僕に響く。再び僕らは、世界に飛び込んでいく。君と僕の世界、ざわめきと静寂を超越した世界。桜の揺らめく音も、子どもの嬉々とした歓びも、透明なシャボン玉として美しく漂う世界。

 「空を、見ようか」

 空気の流れをなるべく淀ませることなく、けれどそれが言葉として迷うことなく機能するように、僕は呟く。一つだけ異なることがある。君と共に、呟く。

 君と共に。

 僕らは、動く空を見上げる。

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 今日の幸福感が書かせた文章。とても良い文章だ。まさか、この1時間足らずの短時間で書き上げることが出来たとは、思えない。

 もっとこの文章に時間を費やす機会が、これから先に訪れるとしたら、それは素晴らしい小説になりうるに違いない。ただ、このままの状態が正しいのだ、とも思う。ここに多くのモチーフを添え、幾つかのメタファーとし、明確なファクターを創り上げることが出来るとしても。

 大切な想いを含む、大切な文章。     circus

2007年3月23日 (金)

人並み

 時折、声を聞く。「普通ってなんだよ」と言う声。現代において、こと何かを批判的に捉えたり、あるいは自分自身を少し変わった人間だと認識している人ほど、このセリフをよく使う気がする。かく言う僕自身も、確か高校一年生くらいの頃は、同じような類の言葉を振りかざして、周囲よりも現実をよく理解していると勘違いし、自分がある意味において誠実な人間なのだ、と思い込んでいたこともあった。懐かしいものだ。

 けれど、今となっては、正確に言えば高校二年生あたりの頃から、全くもってその考えは下らない考えで、なんと意味のない虚構だったのだろうと思う。そして、現在でもそう思う。「普通」を否定することを、僕は間違っているとは言わない。明らかに「普通」という言葉を盾に、様々な可能性や受け入れなければならない状況、もしくは自分自身の甘さを、正当化しようと試み、かつ周囲を蔑む人間が世の中には溢れるほどにいるからだ。そういう人間が「普通」を必要以上に掲げることは、僕も気持ちよい感じはしないし、「普通ってなんだよ」と言いたくもなる。

 僕が言いたいのは、そういう「普通」ではない。もっと日常的に、人間的に、あるいは感情的な意味合いにおいて「普通」というものは大切なのではないか、ということだ。ただ僕は、「普通」という言葉ではなく「人並み」という言葉を主張したい。

 「普通」:特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それが当たり前であること。一般に。たいてい。通常。

 「人並み」:世間一般の人と同じ程度であること。世間並み。

 辞書における意味を見てみると、その言葉の持ちうる意味の範囲に多少の差はあれど、つまるところでは「だいたい人と同じようなこと」というニュアンスで括られる。そして現実の世の中の会話においては、はっきり言ってほぼ同じ用途で使われている。もちろん、言語を職種としている者やある程度自らがこの類のことについて考えたことがある者は、厳密にいくと違いがあることに気がつくであろうが、おそらくそれこそ一般的に言えば、この二つの言葉は置き換えてもなんの支障もない。

 僕はそれでも、「人並み」という言葉の大切さを思う。もちろん、それは「普通」という考え方にも大きく影響あするものだし、僕が主張すべき中心は、いずれにせよ同じところにあると言ってもいい。本題に移ろう。

 現代において、人々の意識は「人並み」を忘れすぎている。否、「人並み」というものを軽視し、まるで愚かなことであるかのように信じ込み、教え込みすぎている。「個性」という言葉に意識を囚われすぎ、あたかも「個性」を重視することは「人並み」とは逆のベクトルであると感じすぎてしまっている。それは大きな間違いであると、僕は思う。

 決して「個性」と「人並み」は相反する、反比例のようなモノではない。相関関係があるかどうかは、統計的な関数を取ることが出来ないものだからわからないけれど、少なくともどちらかを取るとどちらかを犠牲にしてしまうものでは、ない。むしろどちらかと言うならば、僕は比例関係にあるのではないか、とすら思う。

 「個性」を神格化するようになったのは、やはり欧米化が進んできたといわれる現代になってからなのだろうか。確かに、それまでの日本人の姿勢に比べれば、その答えはやはりイエスなのだろうと思う。教育においても、「個性」を引き出すことが重要であると、しつこく言われている。なるほど「個性」は必要かもしれない、けれど、「人並み」を知らぬ見せかけだけの「個性」に一体、何の意味があるというのだろう。

 「個性」を何よりも先に重く見ることは、良くも悪くも多くのプレッシャーを与えている。昔から殺人や自殺や不思議な事件は多いし、特別現代になって増えたとは僕は思っていないのだけれど―ただただ、情報技術の進歩による、情報共有の量に昔と今では差があるだけだ―、事件の質として、現代の事件にはいささか疑問を感じることがある。

 それは事件を起こす側も含め、全体の意識の問題だ。どうもこのところの事件は「食うに困って」とか「復讐で」とかではなく、個人的な行き過ぎた感情によるものが多いと感じる。その要因の一つに、「個性」を埋め込まれ「人並み」を忘れすぎていることがあると、僕は思っている。

 「人並み」に何かを思ったり、考えたり、行動することは非常に紳士的だし、とてつもなくフェアだ。たとえば、人を殺そうと思うときに、その殺す側の人間が果たして「人並み」に「殺される側の苦しみや、残される者の苦しみ」を理解できているなら、殺すことなど出来ない。自殺しようとするものが果たして「人並み」に「生きることの気楽さを持ち、何かに対する反骨精神を持つ」ようなら、自殺など愚かなことだと気付く。そして同じように、「人並み」に多くのことを考えてみれば、世の中はもう少し平和に回る。

 要するにアレだ。僕は小さい頃によく言われたものだが、「人の痛みを知らなければならない」ということでもある。加えて言えば、「常識を知らなければならない」ということでもある。常識なんて概念は、国柄によっても当然違いは生まれてくるわけではあるけれど、少なくとも人間的常識のことを僕は思う。その常識という考え方もつまりは、「人並み」ということだ。

 ある程度、「これはやっちゃいけないんだ」とか「これくらいでいいのかもしれない」とか感じることは、絶対に必要なことだ。それは逃げではない。秩序を保つための、手段だ。

 考えてもみれば、世の中に存在する人間、みんながみんな「オレは人と違うんだぜ」なんて言い出したら、どれだけ統率のない秩序のない世の中になるだろう。人が一人一人違うことは今更取り上げるまでもない真実ではあるけれど、それをあたかも特殊事項であるかのように、そしてその思想に囚われて人を想えなくなるのは、どうにも本末転倒な気がしてならない。「個性」なんて特殊なもんじゃない。

 結局は、「人並み」による社会の秩序を僕は語りたいのかもしれない。盲目的に「個性」だけを引っ張りあげるのは何か不自然な気がする、ということだ。「個性」なんてものは「人並み」を知った上でその人なりに勝手に出てくるものだ。多くの出会いや別れ、喜びや悲しみ、文化や世俗にもまれることによって、経験することによって。

 言っておきたいのは僕は「人並み」は大切だと感じているけれど、それは現在のごく一部で主張される「平等」とは全く違う。僕は世の中に「平等」なんてないと思っている。人間、生まれた瞬間から、生まれる前から「平等」なんてことはないのだから。運動会でみんな手を繋がせてゴールさせるような、桃太朗の劇で桃太朗が何人もいるような、そんな反吐が出る下らない平等主義なんて、必要だとは思わない。それは「人並み」じゃあない、それこそ「人並み」という意識を忘れた人間の主張することだ。「人並み」の意識を持っているものに、いまさら平等なんて主張する意味はないのだから。そこは強調しておきたい。

 僕は人から「普通じゃない」なんて言われることもあるけれど、僕はそれをあまり好まない。人によってはそれを、「個性」と考えよしとする人もいるのだろうけれど、僕は何がおかしいのだろうと感じてしまう。なぜなら、僕はかなりの場合、「人並み」だからだ。こんなことを語るくらいなのだから、当然意識もしている。だから僕は、もう面倒だから初めに付け加えることもある。「普通の人は違うらしいんだけれど……」などと。でも僕に言わせれば、そんな文句を付けなければならない時こそ、「人並み」のことを考え、世の中は「人並み」という考えが脆弱なのだな、と感じる。

 「人並み」なことは何も、悪いことじゃない。「人並み」でないことが、特別良いわけでもない。「個性」が神で「人並み」が平凡なわけじゃない。「人並み」がつまらなくて「個性」が優れているわけでもない。そういうことだ。日本の教育について、メディアではとても騒がれているけれど、僕は今一度「人並み」という意識を、まずは大人の側が持ち直すことが何より必要なことなのではないか、そんなことまで思う。

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 支離滅裂すぎて、ヒドイ文章。でもそれくらい「人並み」の必要性は感じるということだ。今回の文章は、構成を考えることも一切なく、本当に主張したいことは何なのか分析することもなく、流れに身を委ねて文章を上げてみた。

 たまにはそれも、良いと思う。たまにはそれも、楽しいと思う。     circus

2007年3月22日 (木)

短篇集

靴音鳴らす散歩道の途中 ふっと下らぬこと想う

僕らの生きる世界の日々は 終わりの見えないオムニバス

物語は途切れもせず刻み込まれていく 少しずつ厚くなっていく

この小説は 救いが伸びぬ悲劇もあれば 胸を躍らす喜劇もある

でもどんな章にも 無駄な言葉は無い

またそれぞれが 別の道とか夢のようでも 奥底でほら繋がっている

結末は自ずと 出来るから僕は今日もページめくる

主人公はページをめくる僕らで

決していつもヒーローなわけじゃないけれど

次々と傑作の物語描く 誰のものでもない色褪せぬインクで

素晴らしき日々を……

靴音鳴らす散歩道の途中 ふっと大切なこと想う……

この小説は 救いが伸びぬ悲劇もあれば 胸を躍らす喜劇もある

でもどんな章にも 無駄な言葉は無い

またそれぞれが 別の道とか夢のようでも 奥底でほら繋がっている

結末は自ずと 出来るから僕は今日もページめくる

見えるまで僕はずっとページめくる

靴音鳴らす散歩道の途中 ふっと些細なこと想う

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 またしても例の如く、ある種の満足感を『予感』で得てしまったせいで、更新に恐ろしいほどの間が出来てしまった。これから少しの間は、更新頻度を急激に上げてみたいと感じている。

 この詩は、試行錯誤の結果生まれた、いわばカオスの産物である。この詩を書く際に決めていたテーマはあれど、表現の仕方が二転三転し、なおかつ詩によって曲の構成を変えてまで、この状態にたどり着いた。

 書いている間にずっと、僕は自分の人生と、ある人のことを想っていた。ある人とは、特定の一人のようでもあれば、あるいは数人のようでもあった。でもとにかく、その時に想っていたある人は僕の短篇集のページに、なんとしてでも刻み込みたい、そういう人だ。

 僕はペンを持っている。僕はページをめくり、言葉を記す手も持っている。そして何よりも肝心な短篇集は、もとより僕に備わっている。僕はページをめくる。

 今、新たな短篇の序章を、僕は書き出している。それこそ、色褪せぬことなど無いインクで。もしかしたら苦痛の言葉を書き記さねばならないかもしれないし、あるいは喜びと笑いに満ちた言葉を並べることが出来るかもしれない。ただ言えることは、僕は手を止めることはないということだ。たとえそれが、休息の期間であるにせよ、僕はその休息を言葉や抽象において残していく。ページをめくっていく。

 その中で、たくさんの夢と、いくつかの道と、わずかながらも許しあえる人と、僕は表層だけでなく奥底で繋がっていられたら、と想う。そしてその繋がりを記せたら、と想う。

 主人公は紛れもなく、僕だ。でも主人公は中心にいるだけでは、ない。主人公は海の底よりも深く沈んだ位置につくこともあれば、山よりも高い位置にいることもあるだろう。円周の外で中心を見つめることも、運良く中心で周りから支えられることもあるだろう。それでいい。僕は多くの繋がりの中に、確固たる自分自身において身を委ねられたら、それでいい。

 これは逃げの手段ではない。流れに身を委ねるというのは、逃げることにおいては成立たないからだ。僕は僕として、様々な領域に足を踏み入れ、様々な環境に留まろうとし、様々な感情の下で大切なことを見出さねばならない。

 終わりの見えない短篇集にも、終わりはやってくる。結末が見えるまでの時間は、少ないだろう。僕の場合は、たぶん長くない。それを自分が至福と思える結末に出来るかどうかは、やはり僕にかかっている。分かっている。

 だからこそ、この詩を書き上げた。僕だけでなく、僕の周りにいる人々のために。靴音鳴らす、散歩道の途中で。     circus

2007年2月 7日 (水)

予感―予感―

夢を見た。それは限りなくリアルで、果てしなく非現実な夢だった。

 「さあ!議論を始めよう!」議長が声高に叫び、手を振り上げた。

 「何についての議論なのさ?」Aがやる気なさそうに尋ねた。

 「無論、あしたについての議論に決まっているじゃあないか」議長は呆れて鼻を鳴らした。

 「僕はあまり関わりたくないね」Bが少しだけ震えながら呟いた。

 「いや、僕らには議論はともかく、答える義務がある。議長も含めて」Cが冷静に言った。

 「そうとも、議論を始めるべきだ」議長は先より更に、声高に叫んだ。

 「でも、僕は面倒くさいのはごめんだね」Aはため息混じりに愚痴った。

 「うむ、君らはただ答えれば良い。議論は私が進める」議長は誇らしげに周りを見た。

 「じゃあ、どうぞ、お好きなように」Aは諦めたように言葉を紡いだ。

 「君たちはあしたをどう思うかな?」議長はすぐさま議論を進めた。

 「僕は何もわかりませんね、知りもしないし」Cが最も早く発言をした。

 「彼女に聞いてくれればいいさ、もういないけれどね」Bは自虐的に答えた。

 「これでは議論の元にならん。君はどうかね?」議長はAを指差した。

 「オレは楽しければ、何がどうでも知ったこっちゃないよ」Aは静かに首を振った。

 「ダメだ、ダメだ! 議論にならん。これでは結論も出ない」議長は怒りうなだれた。

 「何か手は無いのかな? 僕は早く帰って眠りたいんだ」Bは他人事のように意見した。

 「うむ……、どうしたものか……よし!昨日君を呼んでみようじゃあないか」議長はこれぞ名案と言わんばかりに叫んだ。「昨日君、昨日君! 来たまえ!」

 「……はぁ、なんの御用でしょうか?」昨日君は遠慮がちに現れた。

 「君はあしたをどう思うかね?」議長は厳かに、かつ力強く問うた。

 「そんなこと、僕に聞かれたって……、僕はあくまでも過去ですから、未来であろう、あしたのことなんて何も……」昨日君はまごまごと口篭った。

 「そうか……、それも一理はある。けれど、どうしたものか……」議長は頭を抱え込んだ。

 「じゃあ、次は現在さんを呼んではいかがでしょう?」Cが悠然と声を放った。

 「現在さん、現在さん!おいでってば!」Aが嬉々としながら叫んだ。

 「……わたしにも、ついに、とばっちりがきたようね」現在さんはしぶしぶ現れた。

 「とばっちりだなんて誤解だな……、それで君はどう?」議長は疲れ気味に息を吐いた。

 「わたしに何を望んでいるのかしら、わたしがあしたをわかったら、まるでわたしなんて要らないじゃないの……、まったく嫌だわ……」現在さんは思い切り顔を顰めた。

 「うむ、それもそうだな……ああ! ではどうすればいいのだ!」議長は混乱していた。

 「なら、あした自身を呼んでみればいいじゃないか」Bが当然のように提案した。

 「あした? あしたはいるのか? あした! いるのか!」議長は力いっぱい叫んだ。

 「……はい、ここにいます」あしたはごく密かに声をあげた。姿は見えない。

 「君は、一体、何者なのかね……?」議長はすがるように嘆いた。

 「……申し訳ないですが、僕にもそれはわかりません。僕は、僕であることがわかるだけなのです。つまり、僕が過去でも現在でもないことがわかるだけなのです。たぶん、それ以上でもそれ以下でもないのではないでしょうか……」あしたは語った。

 「……はぁ……わかった、もういい、議論は終わりだ、解散!」議長はまた声高に叫んだ。

 A、B、C、昨日君、現在さん、議長、そしてあした、皆がうなずいていた。

とても滑稽なやりとりの夢だった。正直、何がなんだかわからなかった。しかし、僕は思う。それでいいのではないのかと。「あした」のことなど、誰だってかすかにもわかりやしない、知りやしないのではないか。過去も現在も「あした」は決められない。むしろ「あした」が過去を、現在を決めるのではないだろうか。もし、この僕の思いが正しいとすれば、僕らにわかることは、「あした」には何かあるものがあるという、淡い、漠然とした「予感」、いわばただそれだけなのではないだろうか。

どれだけ嫌がっても、怖がっても、無関心でも、考えふけっても、「あした」は来るのだ。そうして「あした」が来るなら、僕らは「あした」を信じてみるしかないのだ。確証は無いが、そう思える。少なくとも、僕にとっては。

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 これで4つに分けて更新する「予感」は終わり。実のところ、この文章というか短編は、もとは詩だった。それこそ「予感」という歌詞から、この文章が生み出された。歌詞の「予感」は、当然この短編よりも短いし、同じなのは軸だけで、その周りを彩っている形は随分と異なる。どちらも、個人的にはとても気に入っている。

 時間を止めることは出来ない。少なくとも、一般的に認識されている世の中では、動かしようもない事実だ。だからこそ僕らは、信じるしかない。過去は次々と作られていく。こうして文章を書く間にも、あるいは息をしているその瞬間にも、わずかずつではあるけれど過去は作られていく。

 そして現在は決して留まることなく過ぎ、もしかしたらそれが現在であると認識されうることもないかもしれない。現在はほんの一瞬、それも僕らが完全に掴みうることなどで着ないほどに、短い。けれど、確かにその現在は、その時そこにあり、確実に迎え入れるものだ。

 未来は尽きない。何処まで行こうと、未来は僕らの前に立ちはだかる。時にはそれが光に見えることもあれば、闇に覆われている塊にしか見えないこともある。僕らの前には幾つもの未来がある。たとえ、生まれた瞬間に総てが決まっていようと、その「総てが決まっているのかもしれない」という意識を持つことにより、幾つもの選択が生じる。つまりは、道が見える。

 僕らは、その道がどの未来に繋がっているのかを、明確に知ることは出来ない。多少なりの傾向を見出し、若干のヒントがあったとしても、僕らはある意味では霧の中に飛び込むように、道を選ばなければならない。道を閉ざすことは出来る、意図的に。けれどそれは、何の意味ももたない。それは、僕の中では議論に含めない。

 未来は多くの現在と過去を規定する。未来のあり方によって、その時の現在、その時の過去は、いかようにも姿を変える。それは思い出と言うこともできるし、後悔と言うこともできるし、歴史ということもできる。そうして規定する力のある未来も、またそのうちに規定されうる現在、過去へと変わりゆく。

 僕らは、常に未来を持ち、常に現在を通り過ぎ、常に過去を作っていく。それならば、僕らがすべきことはなんだろうか。努力、そうだろう。経験、そうだろう。怠惰、時には必要かもしれない。惰性、そういうこともある。待つ、それも一理だ。他にも有り余るほどに、行動の岐路はある。

 しかし、その総てを総合して僕が思うのは、とにかくそれらを含めた、「これからおこりうる未来」であり「これから変えてゆく未来」を、僕らはどうあれとにかく信じるしかないのではないか、ということだ。辛いことも厳しいことも、悲しいことも怒れることも、楽しいことも笑えることもある。その総てを、信じる。

 前に「許すという奇跡」という文章の中で、愛において「許す」は「信じる」を内包する、と書いた。それとは別次元の話だ。未来においては、「信じる」は最大のファクターとして存在するのではないだろうか。そしてこの「予感」という短編は、あるいは「予感」という歌詞は、そのファクターのメタファーとして存在する。もしくは、メタフォリカルなモチーフとして、存在する。そこに意味と意図がある。

 長くなったが、そういうことだ。この短編を読んで、そして僕の勝手な思い込みを読んで、どう感じるかは全くの自由だ。このブログはそのために存在する。ただただ、きっかけを投げるために。たとえわずかな人にしか、受け止められることがないとしても、ただ赤裸々に叫ぶ。

 メッセージは、伝えるもんじゃない。メッセージは投げかけるものだ。青く淡い心で。     circus

2007年2月 6日 (火)

予感―Cにとって―

「あしたには何があるんですか?」

 突然、僕に小さな子どもが話しかけてきた。どう見ても十そこそこの小学生にしか見えなかった。そんな子どもが一体、僕に何のようだというのだろう。その上、「あしたには何があるか」だって? まったくよくわからない。そんな事がどうだというのだろう。けれど、いかにとぼけたものとはいえ、子どもは流石に無視できない。とりあえず答えなければならないと思った。だから、「知らない」と、僕はただそれだけを子どもに言った。僕は子どもに何かを教えられるほど、大人じゃない。

「あしたとは何かね?」

 今度は、いかにも紳士的な老人が話しかけてきた。しかし、どういうことなのだろう。「何があるか」の次は、「何か」だと言う。こんなに博識そうな老人に聞かれて、僕はどう答えるべきなのだろう。そもそも、この老人が知らずに僕が知っていて、僕がこの老人に対して伝えられることなど、果たしてあるのだろうか。そんな風にも思ったが、やはり何も答えないのは、紳士的に失礼に当たると思った。だから、「よくわかりません」と、僕はごく控えめに言った。僕は老人を諭せるほど、立派なもんじゃない。

「あしたは何処にあるの?」

本当に疲れる日だ。またもや「あした」について話しかけられた。それも今度は、明らかにお嬢様のような女だ。「何処」だって? さすがお嬢様だ、洒落ているよ。時系列に空間を取り入れてきた。お嬢様なら、別に何を知らなくとも生きていけるだろうに、不自由など何一つ無いはずだ。そんな人が、いまさら「あした」に何故興味があると言うのだろう。しかし、答えないわけにはいかない。これはもう性格だろうと思った。だから、「難しいですね」と、僕は優しげに言った。僕はお嬢様に意見できるほど、余裕などない。

「あしたはいつ訪れるのでしょう?」

 もう、驚くことは無かった。慣れてしまった。さりげなく手に取った雑誌の、モノクロページの見開きに、でかでかとこの言葉だけが主張していた。これは、僕に対しての問いではなかったのかもしれない。ところが、僕はその文字に見入った。間違いなく僕には、文字の声と呼ぶべきものが聞こえた。無論、勝手な思い込みに過ぎないだろうが。そうとも、声に出さずとも、答えねばならないと強く思った。だから、「今ではありませんよ、恐らくは」と、僕は雑誌に書き込んだ。僕は文字を納得させられるほど、賢くはない。

「あしたは誰のものですか?」、「あしたは何のためにありますか?」、「あしたは触れるかね?」、「あしたは現実なのか?」、「あしたに終わるのだろうか?」、「あしたは…………

 僕は結局、相当な数の人やモノからに対する問いに答え続けた。もちろん、どれとて大した答えではなかったけれど。それでも僕は、僕なりにしっかりと考えたつもりだ。たとえ、答えたそれがどうしようもないものだったとしても、それは当たり前のことだろう。

 僕は「あした」について何かわかるほど、優れた人間ではないのだ。金も無いし、名誉も無い。才能もないし、根性も無い。知識も無ければ、体力も無い。特技も無いし、趣味だって無い。他にも無いものだったら溢れている。結局、僕には何も無いのだ。強いてあるというのなら、それは僕という自意識と、この体だけかもしれない。

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 さらに続き。これが「予感」の三回目の更新。次の更新で、「予感」は終わる。一つ一つの話は随分と色が違うけれど、総ては予感で繋がっている。

 とにかく、総てを書き終えたら、もう少し語りたい。     circus

2007年2月 5日 (月)

予感―Bにとって―

 ありえない一日だった。本当にそれは、いままで経験してきた中で、想像しえなかったほどに、様々なことが一気に起こりすぎた。まず、朝に目を覚まし、水を飲もうと思い蛇口をひねると、昨晩からの水道管工事のせいで、水が一滴も落ちてこなかった。次に、いつも定時に乗る通勤電車が、途中の駅で軽い事故があり、二十分も遅れた。そして会社では、お得意様から突然の契約解除の連絡が入り、昼の休憩の帰り道では、サイフを落とした。また、家に帰ると、この間受けた検定試験の結果が届いていて、試験には受かっていなかった。夕食時に水を使おうとしたら、どうしたことか、また水が一滴も落ちてこなかった。本当に、色々な災難が一気に降りかかった。中には勿論、こちらの責任とも言えるものもあったが、多くは災難と呼ぶにふさわしいものだった。しかし、もっとも考えさせられたのは、これまで挙げたどのものでもなかった。どのものよりも僕の責任が絡み、どのものよりも、僕にはどうにもならないものだった。彼女が去ったのだ。

 しょうがないことだ、と結局は思った。彼女は僕に、多くのものを与え、多くのことをしてくれたが、僕は彼女に対し、何を与えただろう、そして何をしたのだろう。僕は、彼女に別れを告げられた後に、そう想いふけった。恐らく、一般的に男が、彼女にしてあげられるであろうことはしたはずだった。仕事の無い日はほとんど彼女と一緒に過ごしたし、少しでも時間が空けば電話をした。誕生日は出来る限り盛大に祝ったし、クリスマスは、クリスチャンではないけれど、メリークリスマスと笑った。他にも記念日があれば、僕は覚えていたし、暇があれば料理を作ったりもした。そして精一杯、僕は彼女を愛したと思う。が、だからといってそれが何だったのだろうということだ。今僕が思い返したものは、全て僕でなくても出来たことで、僕でなくても良かったことだったのではないだろうか。そして、それが現実だったのではないだろうか。すなわち、僕は彼女に対し、僕自身として何も与えず、僕自身として何もしていなかったのだ。それならば、彼女が僕に別れを告げるのは、やはりしょうがないことだった。

 たいしてショックを受けたわけでは無かった。それは、しょうがないことだという認識からきたものではなく、それとは別次元の気持ちで、ショックは受けなかった。また決して、僕が彼女を必要としていなかったからということでもない。僕には彼女のぬくもりは心地よかったし、ずいぶんとそのぬくもりを必要としていた。ではなぜショックは受けなかったのだろう。たぶんそれは、僕にとっても、彼女と同じだったからではないだろうか。つまり、僕にとっても、それが彼女でなくても良かったのではないだろうか。この考えはどの角度から見ても、絶対的に正しかった。だからこそ、僕はこうして冷静でいられるのだ。ありえない一日に起こった、もっとも特筆すべき出来事に対してですら。しかしこうして考えてみると、世の中に、僕自身を僕自身として、まして僕でならない存在として、すべてを必要としてくれる人は現れるのだろうか。そして彼女にも、そういう人が現れるのだろうか。僕はふいに震えた。恐くなった。がむしゃらに思考を凝らした。けれど、何も答えは見つからなかった。彼女はよく僕に、「明日になればわかるわ、明日になれば何とかなるわ」と言った。明日になれば、この僕の震えも恐さも、無くなってくれるだろうか。明日になれば、答えは出るのだろうか。僕の前に誰かが現れ、彼女の前にも誰かが現れてくれるのだろうか。とりあえず僕は、深く長く眠ることにした。

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 前に引き続くもの。この部分は、個人的にとても好きだ。特に二つ目の段落の部分。ある意味では、そこの部分こそがこの文章の核とも言えるのかもしれない。

「明日になれば何とかなる」というのは、もしかしたら逃げかもしれないし、詭弁かもしれない。

でも、そう信じなければならないことも、ある。     circus

2007年2月 3日 (土)

予感―Aにとって―

 ……え? ……明日? 明日はダメだよ……、だって、ほらあれがあるからさ……、ん?あれって言えばあれだよ、……うん……、前から言ってあったじゃあないか、ちょっと用事があるからって……、仕事みたいなものだよ、……そう仕事、……いや日曜日だってもちろん忙しかったりするさ……、あれ? 明日って日曜日だったかい? ……そうか……、いや、なにね、最近あんまり忙しいものだからさ……、曜日の感覚がまるっきりなくなっちゃってね、……うん、そう…………

 ―あぁ、面倒くさいなぁ、煩いんだよなぁ、ほんとに。なんだって、こんなにオレに付きまとうかなぁ、ただの遊びだっていうのに、なんだかマジになっちゃって。疲れるなぁ、明日の日曜日くらい好きにさせてくれってんだよ、まったく。そんなに時間が余ってるのかね、羨ましいもんだ、分けて欲しいくらいだね。毎度毎度、休みの前になるとこんな風でさ、もうなんだかなぁ、休みはゆっくりしたいんだよ―

 ……あぁ、ごめんごめん、聞いてる、聞いてるよ、……うん、そりゃあそうだよ、誰だって休みの日にわざわざなんて、……そう、わかる? しょうがないんだよ、ね……、ところで、君のほうは最近どう? ……いや、まった、まった! 違うよ! ……なに、分かってくれたんじゃなかったの? ……だから違うってば! どうしてそういうことになるかなぁ……、僕だって大変なんだよ、本当にいろいろとさ……、胃だってほら、ずうっとチクチク痛んでいるし、……無論だよ、今だって君を思うと……、いや、君が悪いんじゃなくて、君を悩ませてしまっている僕自身にね、……あぁ、大丈夫、大丈夫だよ、心配しないで、……うん、ありがとう、それで君のほうは…………

 ―悪い娘じゃないんだよ、別に。家に来れば、料理だって上手いし、掃除も気が利くし、洗濯もきちんとそろえて干すし、あっちの方だってもちろんね。そういう意味では、悪い娘じゃないよ。でもなんか重いんだよなぁ、将来とか結婚とか、そんなの言われたってねぇ、無理無理。いくらなんだって、縛られたくなんかないよ、もっと綺麗なコならまだしも。いや、見た目でどうこうってんじゃないけど、遊びがマジにはならないよねぇ―

 ……うん、そりゃあ僕だって寂しいさ、でもやっぱりほら……、人間ってのはもともとどこか孤独な生き物だろう? だからきっと自然に、……そう、慣れてくるもんじゃないかな……、いや、何も慣れるのが良いとは言ってないよ、ただ慣れることもある意味で必要悪ってことでさ……、うん? ……だからそういう訳じゃないったら……、僕だって寂しいもんだってさっき言ったろう? そういうことなんだよ……、僕だって君と同じ気持ちさ、辛いもんだよ……、まぁ、そうは言っても口では何とでも言えるからね、君に信じてもらえなくても、普段の僕が悪いってことなんだろうけれどね、……そう……信じてくれるかい、……良かった……、人間、相手が信じられなくなったら、まさに終わりだからね……本当に良かったよ……、え? ……勿論僕だって君を信じているさ! 当たり前だよ……、うん……、僕なんて君の事を、実の親以上に信じているつもりだよ、……大げさなんかじゃないさ……まして嘘なんてもんじゃない……、だって考えてもごらんよ、僕は君をこんなに…………

 ―あぁ、なんだかお腹が空いてきたな、今、何時だろう。なんだよ、もうこんな時間じゃないか、お腹も空くはずさ。暖かい味噌汁が飲みたいな、当然、豆腐とわかめの味噌汁。あとは何がいいかな。暖かい味噌汁に、きゅうりと茄子の浅漬け、鯵の塩焼きに豚肉のソテー、そしてほかほかつやつやのご飯、これだけあれば十分だな。あぁ、デザートはキンキンに冷えたオレンジシャーベットにかぎるよ―

 ……ずいぶん静かになったね……、どうしたの? そうか、もう眠たいんじゃないのかい? ……どうした、どうした……、なんで急に泣き出してるのさ! ……気にするなって言ったってそんなの出来ないよ……どうしたっていうのさ、……そう、……そうなんだ……、安心して逆に泣けてきちゃったってことか……、いやそれを聞いて僕も安心したよ、まぁ僕は泣きはしないけれどね……安心したよ、……じゃあ、そろそろ泣き止んで、ほら、落ち着いて、ゆっくり深呼吸をして……、すうう、はああ、すうう、はああ、さあもう一度、……落ち着いたかい? ……いいよ、いいよ……、誰だって泣くことはあるさ……、まして悲しみでないのなら、申し分ない…………

 ―あぁ、面倒くさいなぁ、煩いんだよなぁ、ほんとに。明日なんて、一緒にいることにならなくて、まったく助かったよ。せっかくの休みにまでこんな風だったら、たまったもんじゃないよ。もうお腹もすいたし、時間も遅いし、いい加減なんとかしないとなぁ。けど、なんか止めづらいんだよな、やっぱり、悪い娘じゃないからかな、参っちゃうよねぇ、このオレの性格。まぁ、明日はゆっくり休めるわけだけど、いい加減なぁ―

 ……それじゃあ、そろそろ……、時間もね、時間だし、……いや、そういうつもりじゃないよ、ただあんまり遅いと、君もやっぱり大変だろうと思ってさ……、ね? ……そんな……どうでもいいだなんて思っているわけが無いじゃないか……、むしろ、その逆さ、……そう、君のことを想っているからこその発言だよ……、言葉っていうものは難しいね……、聞きようによって、ニュアンスがまるで違うようになっちゃうんだな、……じゃあ、また……、何だって? 明日? ……だから、明日は…………

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 まさか、こんな会話をしようとも思わないし、こんなことを特定の人に対して思ったことは、ほとんどない。そんなことは言わなくてもわかるだろうけれど、このブログは主観も創作も混ぜて更新しているので、勘違いはされないように、明記しているに過ぎない。

 ところでこれは、かつて書いたたかだか8000文字程度にも満たない短編の一部である。ここだけを切り取ると、あまり空気としてよろしくない文章とも言えるかもしれない。

 これから今回を含め、4回に分けて総てを更新することになるのだけれど、まぁ面白いものではないと思う。人によっては、やはり気分を害することもあるのかもしれない。特に今回の更新分は。

 さて、続きはまた明日にでも。

      circus

2007年1月28日 (日)

8

思いっきり窓を開ける 太陽の匂いをかぐ

少し冷えた空気に身を引き締める

イングリッシュマフィンを焼く マンデリン・コーヒーを淹れる

ほら 穏やかな一日が始まる

動物園にサイを見に行こう 水族館のクラゲもいいだろう

あるいはプラネタリウムへ星を…… 

なんて数え浮かべてみる どれが幸せを喚起する

考えて 考えて 導き出した答えは

ただ横に君がいれば それで十分なんだ

過ぎ去ってしまったからこそ 強く想う

目一杯ドーナッツをほおばる ブラウスにアイロンをかける

ああ なんだか胸が苦しく空回る

もう一杯コーヒー淹れるか…… とびっきりのダージリンも悪くない

退屈な時間が過ぎては訪れる

なんて長く感じるんだろう いつかの喜び噛み締める

繰り返し 繰り返し 君の名を呼べば

離れていても僕の声は 届いてくれるかなぁ……

呆れるほどに 幼い歌としても

考えて 考えて 導き出した答えは

ただ横に君がいれば それで十分なんだ ああ

繰り返し 繰り返し 君の名を呼べば

離れていても僕の声は 届いてくれるかなぁ……

きりのない想いばかりが 姿映す

眩いライト スイッチを消す ロータスのキャンドルに火をつける

ほら ひそやかにまた一日が 終わる

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 そこに確かな想いがあるからといって、総てがうまくいくものではない。そんなことは、分かっている。

 そこに揺るがぬ正しさや選択があるからといって、悲しみが安らぐわけではない。それも、分かっている。

 そこにかすかな優しさや温もりがあるからといって、多くを留めておくことは出来ない。当然だろう。

 そこに幾つかの残酷さや痛みがあるからといって、目を背け避けられはしない。そのとおりだ。

 だから僕は、踏み出した。だから僕は、この詩をここに書いた。嘘偽りなく、涙が零れ落ちた。

 僕は打ちひしがれている。僕は声を枯らしている。僕は何かを求めている。

 今日だけ、今日一日だけ、弱さを剥きだしにする。

 明日からは、また世界に歩き出せることを、信じて。     circus

2007年1月27日 (土)

荒野

 「王様の耳はロバの耳」という童話だったかの話の中で、人々は王様の耳の秘密を我慢できずに、どこかに吐き出したいという欲求の下、穴の中に叫んでいたと思う。人々はもちろん、何もその穴に叫びたかったわけではない。ただ、どこかへその言葉を投げ出し、何かに吸収してもらいたかったに過ぎない。

 僕は、どこかしら、その穴のような傾向がある。

 それはアイロニーのかけらもないような悪口であったり、建設性の一端もないような愚痴であったり、幸福感への道のりが全く垣間見えないような吐露であったり、気楽な妄想が入り混じったのろけ話だったりすることはあるけれど、僕にとってそれらの話は、否、僕にそれを投げかけてくる人々の多くは、一定の感覚であることが分かる。

 きっと投げかけられるべき対象は、何も僕でなくても構わないのだ。そこに邪魔にならないくらいの存在があり、そこに腰を折らないほど良い相づちがあり、結果として話終えて満足をする自分がそこにいれば、それで良いのだ。そう、まるで「王様の耳はロバの耳」と叫ぶ人々のように。

 けれど、僕はそれを極端に嫌がっているわけではない。人の話を聞くのは好きなタイプだし、忍耐力が身に付く。そして同時に、話す彼らは満足する。誰が迷惑を感じているわけでもないし、誰を悲しませているわけでもないのだ。もちろん、それと同じように、誰に感動を与えているわけでもないけれど。

 僕が穴だとしたら、僕はどこに叫べばいいのだろう。

 僕に投げかけられた不満やら怒りやら、悲しみやら切なさやら、喜びやら照れやら、痛さやら憎しみやらは、空気中に瞬間的に分散し、消滅するわけではない。僕に思い入れがあろうとなかろうと、言葉という形で、あるいはその言葉を受け止めている状況として、僕はどうしようもなくある程度の感情を吸収することになる。そしてそれらは僕自身の多くの感情と入り混じって、僕の中に留まり、溜まることになる。

 しかし、彼らはそんなことはなんとも思わない。当然、僕も彼らに何を言うこともない。それでも、行き場のない感情は僕の中に留まっていく。

 僕がどれだけ感情的な人間かは、自分自身でははかり知ることが出来ない面があるとしても、冷静に客観的に判断して、信号の命令に従うだけの、危険性の排除された、定義の上だけでのロボットよりは、十分に感情が溢れているだろう。人並みというのがどれくらいかが分かりづらい表現だとしても、それは確かに人並みにあるのだ。僕にだって、人並みに感情は、ある。

 僕が吐き出すための穴は、どこかにあるのだろうか。

 僕は少し、穴を掘りたくなった。

 何もない荒野で、誰もいない街で。

 この体を使って。

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 面白い文章。長くはないけれど、すごくフラットな気分でこの文章を書けたことは、なんだか良い傾向。

 僕はフラットという言葉を好んで使うのだけれど、多くの人々は理解が出来ないそうだ。

 音楽でのフラットとかではなくて、平坦とかのっぺりとか、そういう平面的な意味でのフラット。

 フラットということについては、また思うところがあるので、機会があれば書くことにする。

 うまく書ける自信はないけれど。     circus

2007年1月16日 (火)

許すという奇跡

 おそらく、幾多にも分かれる人間関係における感情や行動において、最も尊敬に値し、逆に言えば最も困難にもなりうるものが、「許す」ということだと僕は思う。それはただ単に、何か分が悪くしたり気を悪くしたりしてしまった際に自らが行使し、または享受する場合においてのみならず、もっと広い場合において「許す」ということは意味を持ちうる。友好の中で、師弟の中で、形式の中で、そして愛情の中で。

 「許す」ということの持ちうる、ひとつ間違えれば危険なほどの意味を、僕はなんだったかの小説の一節で知った。宮部みゆきの何かであったであろうことは記憶しているが、それ以上は定かではない。一節の構成や文脈も憶えていない。そこに記され、僕に投げかけられていた「許す」ということの強い意味の、いわばエッセンスだけが、脳裏に焼き付いている。それは、分かりやすくデフォルメすると次のような例だった。

 ―ある配送業者のトラックは、年の瀬のせいかそれはもう急いでいた。ある少女は、高校帰りに家族との約束の時間に帰るため、それはもう家路を急いでいた。見えにくい信号。滑りやすい路面。交差点。トラックと少女はすれ違う、否、衝突する。勢いよく、少女の身体は跳ね上がる。驚きに、運転手の目は見開かれる。交差点だけが、静かに笑っている。―

 書いてみると、ほとんどが僕の創造になってしまっている。あらゆる部分が、全くもって宮部みゆきの書いた状況とは食い違っているし、類似した部分もほぼない。しかし、中枢は同じだ。要するに、文章の内包する主張するべき何か、は完全に一致している。僕の本来主張したいことは、近くて遠いところにあるにせよ、まずはデフォルメした一節から、「許す」ことの意味を抽出したい。

 果たして上記の例の場合、悪いのは誰だろうか。仮に自動車側の信号が、赤であったとする。多くの世間の人々は「運転手が悪いのだ」と言うだろう。なるほど、間違っていない。僕もまずそう思う。そして仮に少女側の信号が赤だったとする。それでも多くの人々は「運転手の不注意だ」というだろうけれど、一部の人々は「少女の不注意だ」という認識も生まれることだろう。その通りだ、僕も同じようにまず思う。

 そして、一般世界では結論が出される。稀にもう少し踏み込んだ部分まで議論が進むことはあれど、結局のところそれらが裁判にかけられたり、罪を背負うことはほとんどない。かろうじてあるとするならば、記憶に新しいJR西日本の事件くらいのものだろうか。それでも、JR西日本はさほどの罪を背負ったわけではない。

 僕はそれが悪いとは思わない。むしろ、世界とはそうあるべきなのだ、と思う。つまりは一般世界において、その当事者達だけを巻き込んだ結論を得ることは、仕方がないことだからだ。自然ななりゆきだからだ。そこでは僕らは相当に多くのことを「許している」のだ。無意識かもしれないけれど、そういうことなのだ。僕らは「許す」という意味の力によって、世界を成り立たせることができている。僕は紛れもなく、そう信じている。

 僕らは、交差点の信号が見にくく設置されていることを許している。僕らは、路面が滑りやすいことを許している。僕らは、その信号や路面を作ってしまった人々を許している。僕らは、年の瀬に急がせている配送業者そのものを、そして配送業者にそこまで急がせてしまう僕らの慣習を、さらにはその慣習を見直すことのない自分自身やその周りの人々を許している。僕らは、少女に時間をかせた家族を、そしてやはりそうさせてしまう僕らの慣習を、そんな慣習を守ってしまう僕らの律儀さや国民性を許している。もっと言えば、その多くを形成する手助けをしてしまっている世界を許している。また、その世界を形成してしまった過去の歴史や人々を許している。

 けれど、それが正しい。状況によって、はじめの部分に挙げたような業者や周りの人々などを許さざることが、ごく稀にあるとしても、ほとんどにおいて僕らが下している「許す」という判断は正しい。それは誰が疑う余地もない。総てを追求し、総てを許さない世界は起こりえない。それは、世界そのものを許さざることにしなければならないからだ。だから、僕らは多くを「許す」。その力を理解しているかどうかは、別として。

 つまり、「許す」ということは世界を作っている。それだけの意味を、持ち合わせている。しかしながら、僕が本来主張したいことは、そういうことではない。「許す」ということがそれだけの意味を持ち合わせているのだ、ということを前提として、僕は思う。

 最初に述べたように、僕らは友好や師弟、若しくは形式の中で日常生活上、「許す」。そしてなにより愛情という側面において、「許す」ということは大きい。少なくとも、僕はそう思っている。ある人が、またある人を愛するというのは、同時に、ある人がまたある人を完全に「許す」ことと同意ではないだろうか。

 人を愛すると、たくさんの問題が発生する。それは物理的なすれ違いかもしれないし、精神的なすれ違いかもしれない。もしかしたら、性格上しかたがないことかもしれないし、経験上避けられないものかもしれない。言葉に出来うる問題も、出来ない問題も発生する。どちらかが一方的に身勝手であることもあるだろうし、あるいは互いが互いに身勝手であることもあるだろう。誰が悪いわけでもないけれど、誰もが悪い、そういうことが。

 それでも僕らは、人を愛する。人それぞれ対象に対する何かしらの基準はあれど、その基準をクリアし―場合によっては基準をクリアすることなくとも、不思議と愛することはあるけれど―、もうどうしようもない位に、必要性と必然性にかられ、自らの意識以上に人を愛してしまうものだ。最終的には、そこに具体的な理由など、ないように僕は思う。何を愛するとか、何処を愛するとか、そんなことは些細なことで、理由など分からなくとも愛するときは愛してしまうものではないか、と。とはいえ、今はそのことはそれほど関係はない。置いておこう。

 要するに「本当に」人が人を愛するには、そういった数々の問題を、相手を、そして自分自身を、何処まで「許す」ことが出来るかが重要になってくるということだ。おそらく、多くの人が憧れるような、いわゆる理想の夫婦のような状態は、ある意味で完全に許しあっている。もちろん、互いに不満を述べたり、怒ったり、時には涙することもあるかもしれない。けれど、その前後関係やその感情自体を、互いに互いを、自分が自分を許している。だからこそ、その理想の夫婦が離れることは、ない。もしかしたらその二人には、そんなことを想像したことすらないかもしれない。あったとしても、そんな想像すら「許す」ことをしているのだろう。

 あくまで、僕の考えに過ぎない。でも、強ちおかしくもないのではないか。ある二人は、瑣末なことで争う。そして、離れる。また、瑣末なことで争うことなく、些細なすれ違いや思考の相違で、離れる。瑣末な争いにおける感情や行動を、もしも完全に「許す」ことがいつも出来ていたなら、些細なすれ違いや思考の相違における苦痛や困惑を、もしも完全に「許す」ことが日常で、労せず出来ていたなら、そのある二人は離れない。それはどう考えても、誠実だ。

 果たして今言う愛情の中での「許す」ということは、意識的に出来うるものなのだろうか。それとも、無意識に運命的に成り立つものなのだろうか。僕にも、そんなことは分からない。ただ確実に言えることは、「許す」ことが存在しない愛情は、続くはずがない、というよりはそれは愛情とは言わない、ということだ。もちろん、僕自身の考え方にとって、確実に言える、というだけに過ぎないが。

 「許す」ということは、口で言うほど簡単なことではない。それは信じるとか、誓うとか、守るとか、そんなこと達とは比較にならないほど、難しい。なぜなら、「許す」ということの中に、それら総てが内包されているからだ。究極の愛情表現に、他ならない。

 それは、奇跡と言い換えることも、出来るのかもしれない。僕は、そう思う。

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 主観だけれど、あとがき。

 僕は今、ある人に対して、何処まで「許す」ことが出来るのか、最大限に悩んでいる状態にある。それは正確に言うと、そのある人をというわけではなく、ある人に接している自分自身を許すのかどうか、ということだ。

 僕は本当に、弱く、浅はかで、わがままで、愚かで、幼い。でもそんな僕にだって、こんな冷ややかなブログを書いている僕にだって、感情はある。自分では理解できないくらいに、どうしようもない感情がある。

 その感情が、僕の考えうるようなものに該当するのか、あるいはそうなるのか。大きな問題だ。瀬戸際にいる。それは僕一人の問題ではないけれど、僕が放棄していい問題でもない。

 僕は僕なりに、ここしばらくのうちに、一定の方向性を定めた。そのままその方向性に流れるかもしれないし、奇跡的にそうでないことも起こりうるかもしれない。それもやはり、僕には分からない。

 僕が本当はどちらを望んでいるのかは、明らかだ。幸せに勝るものは、ない。しかし、その可能性は極めて低い。誰かが助けてくれたなら、などとも思う。でも、そうはいかないことは、分かっている。     circus

2007年1月11日 (木)

 「紛らわそうとすればするほど、寂しさは膨れあがるものなのです」

 僕は、耳を塞ぐ。

 「考えまいと思えば思うほど、悲しみはすり寄ってくるものなのです」

 僕は、目を隠す。

 「傷つきたくないと望めば望むほど、苦しみは鋭さを増すものなのです」

 僕は、口を結ぶ。

 「大切にしたいと感じれば感じるほど、喜びは零れ落ちるものなのです」

 僕は、手を握る。

 「欲しがって探せば探すほど、幸せは儚く霞んでいくものなのです」

 僕は、心を砕く。

 

 君の、夢を見る。

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 高校生の頃は、形式は多々あれどこういった具合のとても短いセンテンスを、よくノートに書き留めていた。周りからするとそれは、少し異様な雰囲気がしていたのかもしれない。けれど、その頃のセンテンスの多くは、いつの間にかどこかへ失ってしまった。

 今回のセンテンスは、過去のモノではなく、現在吐き出したモノだ。だからと言って、今の自分を吐露したものということではない。心理状況が文章に及ぼす影響は少なからずあれど、心理状況そのものが文章に成りうることはない。

 しかしながら感じるのは、きっと今の僕には何かが足りないということだ。それが僕自身でどうにか出来るか出来ないかは、別として。街は、多くの意味で、冷たい。     circus

 

2007年1月10日 (水)

その絵は別段特別なものではなかった。ピカソとかゴーギャンとかマティスとかロスコとか、そういういわゆる有名画家が描いたものではなかった。恐らくは、しがない、まだ売れない、あるいはこのまま大成はしないかも知れないような、若い現代美術家が描いたものだった。

 その絵を見ながら、君は泣いていた。

 絵のタイトルは書かれていなかった。美術館の都合上、壁にナンバーがふられ、タイトルの部分には「無題」と記されていた。一瞬、「無題」というのがタイトルのようにも思えたが、他のいかなる作品にも、「孤独の表層」「摘み取られた自意識」「現実妄想的理性」といったように、何かしらの複雑なものが付いていたから、まだタイトルを決めあぐねていたか、もしくはある意味で、未完成だったのかもしれなかった。美術館におけるナンバーは二十七だった。特にそれはいい順番でも悪い順番でもなかった。でもその絵の前には、休憩用のちょっとした長椅子が置かれていた。座り心地は幾分固かったが、僕らには十分だった。僕らはそれに腰掛けながら、この絵を見た。

 君はただただ泣いていた。声を上げることも、顔を顰めることも無く。

 それはパッと見る限りでは、単なる黒いキャンバスだった。大きさだってさして大きくもなく、かといって眼を引くほどに小さいわけでもなかった。けれど僕らは、確かにその絵にたまらなく魅かれた。僕は君のように涙を流したりはしなかったけれど。その絵は、実はよく見ると単なる黒ではないことに気づく。全体は黒でも、左隅と右隅ではかすかに明度が異なり、上辺と下辺では厚みが異なり、そして全体の中でタッチが二変三変していた。また黒い空間の中心に、とても小さい、それこそ針の穴の大きさのような赤い点が、一つだけあった。それは僕が今までに見た、どんな赤よりも深く強い赤で、どんな点よりも完璧な点であった。君にそれが何に見えたかはわからないが、僕にはそれは、心臓のように見えた。静かにのたうつ鼓動。それが僕の中にまるで、響いてくるように感じた。僕の鼓動と同期し、ともに動く錯覚にとらわれた。とはいえ、それはあくまで僕のイメージ、概念に過ぎなかったのではないかと思う。

君はいつまでも泣いていた。静かに、美しく。

僕らはこの絵がある間、何度も美術館を訪れた。おそらく一月ちょっとの間だっただろうが、僕らは毎日のように美術館を訪れた。見飽きた受付で慣れたようにチケットを買い、冷ややかな態度の入り口を越えて、数ある理解の難しい絵の前を通り過ぎ、いつも「無題」の前で座り込んだ。そして君は涙を流し、僕はその横でじっと絵と君とを見ていた。それはほんの数分で終わることもあったし、朝一番から美術館の終了時刻までそうしていたこともあった。僕は、自分から終わりを告げようと思ったことは無かった。なぜなら、僕自身も勿論絵が気に入っていたわけだし、また、君が見ていたいのならば、そうすべきだと思ったからだ。行動になにかの意味があるのではなく、なにかの意味が行動を起こさせていると思ったからだ。君には絵を見て涙を流す必要があり、僕にはそれを最後まで見守る必然があったのだ。少なくとも、当時の僕にとっては。

君はそのまま泣いていた。拭いはせず、滴らせるままで。

僕はどうして涙を流しているのか、君に何度か尋ねた。そのときの君の返事はまちまちだった。最初に尋ねたときは、君は首を横に振るだけだった。次に尋ねたときは、「わからないわ」と答えた。いつだったかに尋ねたときは、「意味なんて、見つけられないものよ」と答えた。何度尋ねても、なかなかに納得できるような返事が返っては来なかった。そのうちに僕は尋ねるのをやめた。「別にかまわない」、と思った。僕が君の全てを知ることなど出来るはずはないし、出来てどうということでもない。それはやはり、君にとっても同じことだった。僕はただ、君を受け入れようとした。何がそこにあろうと、何がそこに無かろうと、とにかく僕は、君の何もかもを受け入れる覚悟があった。それが正しかろうと、そうでなかろうと。だから僕は、君が涙を流すのを止めようとはしなかった。僕は何故そんな風に考えるのか、自分に尋ねてみた。思ったとおり、何もわからなかった。僕は反芻した。「意味なんて見つけられないものだ。」

君はどうしようもなく泣いていた。どうしようもなく、滑らかに。

つまり僕らは、とにかくその絵のためだけに、足しげく美術館を訪れた。

そしてふいのある日、その絵は美術館から姿を消した。けれど、僕らはそれからもしばらくは美術館を訪れた。はっきり言って、何を見るでもなかった。時々、幾つかの絵の前で立ち止まり眺めることはあったが、それはあくまでも形式上のものに過ぎず、僕らの目の前にはきっと何一つ映ってはいなく、いわば歩き続けた際の反動とも言うべき絶対なる休憩であった。そうして僕らは歩き回り、美術館を出た。その繰り返しだった。ならば、何故美術館を訪れたのだろう。絵はもうそこに無かったのに。しかし、僕らはそうすることが適切だった。そうしなければならなかった。もうここにあの絵はないのだ、という確固たる現実と、もうここで涙は流さなくてよいのだ、という漠然とした真実を、しっかりと受け止め、飲み込み、消化する時間が不可欠だった。リハビリのようなものかもしれない。僕らのどちらが言ったことではなく、自然と、僕らのどちらもが望んだことだったように思う。そう、仕方が無いことだったのだ。多分、きっと。

君は変わりなく泣いていた。ただし、僕の記憶の中で。

そうして一月ほど経った時、君は美術館を出た後で、「今日で最後ね……」と突然言った。僕はためらいなく頷いた。絵が無くなってからもう十分に時は経っていたし、何よりも君が最後だというのなら、それが最後であるという証にままならなかった。僕らはそれから振り返ることなく家に帰り、いつもよりも少し多めの夕食をとり、いつもより念入りに湯につかり、そしていつもよりも早い時間に眠りについた。

次の日の朝、目を覚ますと君はどこにもいなかった。

今度は絵でなく、君が消えた。

君が、去った。

溜まっていた涙が、流れた。

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 現実であるかそうでないかは、どうでもいいことだ。でも僕は、この文章がそこはかとなく気に入っている。

 この文章は、僕がある形式でまとめてある、いわば超短編をとりまとめた短編小説のような、13の文章のかたまりの中の1つだ。これが始めでもなければ、終わりでもない。しかしその13の文章は、それぞれがある意味で独立した状態で成立ちうるものだ。

 本来なら、13あるものを最初から書いていくべきところなのだが、今はまだ、その時期ではない。それ相応の時期が訪れたならば、その際にはきちんと順番に、ここに書いてみたい。

 それなのに、この文章だけここに括り出して書いたのは、あるいは僕が今、涙を流したくなるような感情の種を抱えていて、その今の僕の代わりに、この文章の中の僕に涙を流して欲しかったのかもしれない。

 記憶は時に優しくもあり、残酷でもある。人間がどれほどに忘れゆく生きものだとしても、総てを忘れることは出来ないし、そんなことは望みたくもない。ただただ僕が望むことと言えば、「今という記憶を、出来うるならば暖かい記憶にしたい」ということだ。

 そうだ、僕はもっと、美術館に行かなければならない。     circus

 

2006年12月31日 (日)

つながり

世界に生まれ落ちた瞬間 総ては決まっているのかなぁ

出会いや別れ 愛の行方も巡り巡っているのかなぁ

あがいて出来ることなど たかがしれているかもしれない

だから時には胸が軋んだり 眠れなかったりするんだけれど

心配すんな 焦んなくていいんだ 今戸惑いすれ違おうとも

時を待つんだ 信じてみるんだ いつか自然と交差する

そうだ 確かな繋がりを僕らは目にするんだ

偶然もある 必然もある そんな日常だって嘘じゃないだろう

運命変える術なんてのは 誰も持っていないだろうが

それでも僕らは想いの限り 多くを選ぶつもりで

過ぎ行く日々を 流れる日々を ただあるがまま生きるしかなくて

言葉にならない 想いもあるんだ だから優しく抱きしめ合う

大げさじゃなくて 信じているんだ もっと触れ合い分かち合える

そうだ わずかな時間でも僕らは深まるんだ

形創られるものが総てじゃない だけど形無いものが総てでもない

僕らは寄り添い それを証明する

心配すんな 焦んなくていいんだ 今戸惑いすれ違おうとも

時を待つんだ 信じてみるんだ いつか自然と交差する

言葉にならない 想いはあっても 抱きしめあう 分かち合える

そうだ 確かな繋がりを僕らは手にするんだ

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 今年の出会いの総てが、書かせてくれた詩。衝撃的な出会いもあれば、ゆるやかな出会いもあった。でも、今確かに言えることは、そのどれもが素晴らしかったということだ。

 今年めぐり合った人とは、もしかしたらこれからも永く付き合えるのかもしれないし、いつの間にか疎遠になることもあるかもしれない。現段階では、そんなこと分かりようがない。けれど、だからといって、僕の一部に影響を与えてくれたことには、相違ない。

 今年、僕に絡み、触れあい、あるいは通過していった人々は、幸せになっているだろうか。果たして僕に、そんな力はあるはずがないとしても、僕はそういうことを必ず考える。僕は、少しでも僕と関係した人には、幸せになってもらいたいと考えるからだ。……たとえそれが、いかなる形であっても。

 この詩をブログに載せてしまうことは、多少なりの抵抗があった。それは、この詩があまりにも僕にとって大切で、欠かせない詩に成りえているからだ。メロディーが付随している状態ではないとはいえ、今一度、自分自身で見返すだけでも、心が揺れ動く。……自らが書いた詩だから、というだけではない。それ以上の何かを、この詩には感じている。

 もしも、さりげなくこのブログを垣間見て、さらに何気なくこの詩を流し読んで、ごく稀に何かを感じ考えてくれる人がいたとしたら、冗談なんかじゃなく、すごく嬉しい。……すごく、なんていう決まりきった形容詞を使いたくないくらいに、本当に嬉しい。

 とにかく、今年最後の更新に、相応しい更新となった。気まぐれな更新頻度のせいで、平均したとしても月に一度程度しか更新はしなかったけれど、来年はもう少し、このブログに多くを書いていきたいと思う。

 何はともあれ、このブログを通して、文章を通して繋がっている人々に、多くの感謝と、来年の幸せへの祈りを、ささげます。     circus

2006年11月26日 (日)

 「そう、混乱している」

 襲いかかる夜に僕は小さく呟いた。

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